歴史離れと歴史そのまま
名探偵コナンのトンチキ回を見てしまって妙な脱力感があったけど、「どうする家康」とか「江」(のあらすじ--早々に脱落してみていない)も私にとっては同じ感覚。
なぜ時代劇を見るかと言えば、衣装とか背景とか、その時代の雰囲気が味わいたいから。
それでも長寿ドラマ化したりすると現代的なモチーフとか、どこかで見たような話が入ったりするけど、そこに目くじら立てるのは無粋。
でも、大河ドラマは違う。
衣装とか背景以外にも、「歴史の面白さ」を大河ドラマには求めている。
歴史自体がストーリーでありプロット。
資料に基づいて「実はこんな近代的な面もあったんですよ」というのは良いんだけど、無理やり現代人そのままの思想や価値観を持ち込まれると興ざめする。「史実を無視した創作はファンタジーでやれ」とはよく言うけれど、「お花畑平和思想」なんてファンタジーの世界でもNG。
「でも」というか「こそ」NGかもしれない。
登場人物が唐突に平和思想を主張するファンタジーを見たいと思わないから。
最終的に平和を願うのは当然のことで、そこにどう至るかが見せ場なのに直接言葉にしてどうするっていう話です。
2006年にTBSで放送された「里見八犬伝」は終盤、里見義実の平和演説でやらかしていた。
「南総里見八犬伝」は伝奇小説だからファンタジーなわけで、姫と犬の因縁も不思議な玉も怨霊も妖怪も全部「あり」だけど、実在とされる武将(それも、これから騒乱の時代が始まりますよ、という時代の)が戦争反対演説は創作にしてもリアリティがなさすぎた。
で、「どうする家康」です。
瀬名は今川の身内だし、新興の織田よりも格式のある武田を選択するのは腑に落ちるしその路線で描けば良かったのにと思う。
経済圏の統一とか言うなら信長支持のほうが自然だし。
この大河はやたらと女性に語らせるけど、そのわりに物語の序盤で寿桂尼を無視しているし、取ってつけた感じが否めない。
家康の今川時代に、せめて二話くらい使って、寿桂尼を登場させて、義元をもっとじっくり描いていたら、その後の話も説得力があったと思うのですよ。
瀬名と田鶴の少女時代に絡めて描くことも出来ただろうし。
いちいち史実の解釈をこねくり回して不要な話を入れるのは、脚本家とプロデューサーが無理くり「女城主直虎」と違う話にしようとしているみたいに思える。
別に話が被ったところで俳優は違うんだし、同じにはならないのに。
直虎の今川義元は敢えての台詞なしだったけど、そこを野村萬斎が朗々と演じる今川義元をもっと見たかったですけどね。
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