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2005年11月16日 (水)

「無視」に対する過敏な反応

最近、高校生が起こした2つの事件のうち、静岡のタリウム事件のほうが異常性・特殊性は感じるけれど、身に迫った怖さというのは感じない。
この事件を起こした女子高生の行動に、以前から兆候はあったとはいうものの、それに周囲が気づかなかったことを安易に責める気にはなれない。
たとえば中学の文集に書いていたという「尊敬する人」にしても、グレアム・ヤングが毒殺犯だとわかる教師というのは、そうはいないはず。
(すぐにピンとくる教師というのも、それはそれでどうかと思う。)
私もタリウムときいて、アガサ・クリスティの「蒼ざめた馬」を連想したりはしたけど、グレアム・ヤングの名前はこの事件で初めて知ったし。
少女の家族にしても普通の人たちのようだし、自分のなかに存在しない異常性に気づくというのは、なかなか難しいものだと思うのです。たとえ我が子であっても。

でも、町田の事件には身近でも起こりうる怖さがある。
動機とされている「無視されたから」というのに強くそれを感じた。
少し前に、blogだったかで「携帯電話を忘れて外出して、メールをくれた友人に返信できなかった。そしたら、友人が無視されたと怒っていた」と書かれているのを見かけたことがあって、非常にありふれた日常の出来事なのだけれど、「無視されたと思って怒る」という感覚がちょっと怖いなと感じたのを思い出した。
たまたま連絡が取れなかったとして、何かあったのかと心配したりすることはあっても、一足飛びに「無視された」とは思うことはない、というのが、今までならば「普通の感覚」だったと思うのだけど、それが普通でなくなってきているんだなーと。
短絡的に「無視した・された」に結びつける感覚が、今の若い子たちの間では(おそらく)普通のことになってしまっているみたいである。
一方的に誰かを好きになることとか、思い込みが強すぎたりということならば昔からよくあることだけど、「無視」に対する過敏さ、我慢のきかなさは今の時代特有のものであるような気がする。

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