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2005年11月16日 (水)

再びラヴァーズ・キス(追記有)

「曽根崎心中」の道行の詞が「ラヴァーズ・キス」の原作、映画両方で重要なモチーフとして使われているのだけど、それがとても美しくて印象的だった。

此の世の名残り夜も名残り 死ににゆく身をたとふれば あだしが原の道の霜 ひと足ずつに消えてゆく 夢の夢こそあはれなれ

近松門左衛門は子供向けの現代語訳でいくつかは読んだことがあったけど、原文がこんなに美しいとは知らず、不明の至りでございます。
古典は王朝時代の十二単の世界のほうが好きでーとか、世話物はあんまり好きじゃなくてーとか、いろいろ理由はあったんだけど。

で、原作をじっくり読んでみて、先に「ラヴァーズ・キス」の原作を読んだ人は、映画のここが不満だろうなーなんてところも、なんとなく見えてきたような気がする。

たとえば、朋章が、自分と一夜を過ごした(という表現もナンなんですが)時の里伽子の態度に腹を立て「男を消耗品だと思っているんだろうからどう使ってくれてもかまわないけどさ、消耗品にも感情があるんだよ」と言うくだり、原作では、図書室にいる里伽子のところに朋章が自ら出向いてその台詞を言いに行くのだけど、映画では校庭にいる里伽子が通りかかった朋章を呼び止めて絡む→朋章言い返す→里伽子が朋章を平手打ち、に変わっている。
で、この場面のみならば原作の描写のほうが状況として納得が行くし、良いと思う。
女の子から誘っときながらデートの最中(それもホテルで)につまらない顔をされたら、思い出し怒りの一つもしたくなるだろうし、文句も言いに行きたかろう、男としては。
それから、里伽子が朋章に「あと少しで卒業なのに、どうして小笠原なの」というところも、原作では「朋章にはそういう言葉を言わせない何かがあって、里伽子もそれを察して言葉を呑み込む」となっているので、この台詞を里伽子に言わせたことも原作ファンには安易に思えて不評かもしれないなと思ったりした。

でもこのあたりは映画と漫画の表現方法の違いで、映画では、里佳子が朋章をひっぱたく場面を教室の窓から高尾、オオサカ電柱(篤志)、依里子が目撃しているわけで、朋章と里伽子が特別な関係だと彼らに感じさせるためには、「朋章が文句をいいに行く」よりも「里伽子が朋章をひっぱたく」ほうが絵としてはインパクトがあるし、「みんなが同じ場面を見ている」ことを強調するためにも、絵のインパクトは重要。
後者の場面についても、映画やテレビドラマでは小説や漫画ほどにはモノローグを多用できないという制約がある。
紙媒体で読む分には自然に感じるモノローグが、映像と音声で語られると陳腐になるのはよくあること。
しかも、この映画の場合、高尾、依里子のパートで語りを使って構成しているから、里伽子の気持ちまでモノローグにしてしまうと、やたらと語りの多い映画になってしまうし、高尾と依里子のモノローグは映画の中で必要不可欠な要素だからはずせない。
それでなくても里伽子役の平山あやは、出演した若手俳優の中では唯一、演技力に不安があったから、ダイヤローグはともかくモノローグは、観ているほうにとっても正直かなり辛いかなーと思うし。
だからといって「もっと演技力のある誰か」を起用すればいいかというと、いくら演技力があってもビジュアルがいまいちでは絵としての説得力に欠けるので、そこが難しいところ。

というわけで、「あと少しで・・・」を里伽子に台詞として言わせて、そこから朋章の「いられ・・ないから」という返事と切ない表情へと展開したのは、映画の描き方としては良かったと思うんである。はい。

原作のある映画を見る場合、原則的には映像化された作品と原作は別モノだと割り切って考えるようにしている。
映像化が不可能な表現もあるし、可能だとしても文章に書かれていることを忠実に映像にしたからといって映画として成立するとは限らない、というのが理由。
そういえば、村上春樹の「風の歌を聴け」が映画化された時に、監督の大森一樹は、小説の描写のとおりにジェイズ・バーにピーナッツの殻を敷き詰めたり、大学の校庭にティッシュ・ペーパーを降らせたりしたけど、著者の村上春樹自身は、そのシーンを見て驚いた、なんていう話もありました。
やっぱり、媒体の違いというのはあるし、絵と実写の映像では当然質感も違ってくるし。

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この映画の多重構造についての追記:
先にも書いたとおり、この映画は一つの場面がいくつかの視点で繰り返し登場する。
第一話では、音楽室の高尾と朋章の親しげな様子を里伽子と美樹が屋上から窓越しに見るのだけれど、第二話では音楽室内に視点を移して高尾と朋章のやりとりが具体的に描かれる。
里伽子が朋章をひっぱたく中庭のシーンなどは3回にわたって登場する。
まず、第一話は当事者である里伽子の視点、第二話では教室からの高尾とオオサカの視点、第三話になると、高尾とオオサカよりも離れたところにいる依里子の視点で、遠いぶんだけ視野は広いから、朋章は里伽子と美樹がいるベンチよりもかなり手前から依里子の視界に入ってくるし、殴られてから立ち去るところまでも依里子は見ている。(この、わりに長い距離を朋章は一貫して"90年代の高校生の歩き方"で歩いてます。)
さらに、第一話のラスト、朋章と里伽子の浜辺のキスシーンも、第二話では高尾とオオサカが遠くから見ている、と。
視点を変えて同じ場面が出てくるということは、当然のことながら同じ場面を視点を変えて撮影しているということだろうけど、表情にしても立ち位置にしても、一つの角度から撮るよりも細かい配慮が必要なはず・・・なんてことを常に考えながら映画を見るわけじゃないのだけど、この映画に関しては興味深かったもので。

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この映画とは直接関係ない話だけれど、演技って「台詞の自然さ」で評価されがちなところがあって、もちろん台詞が自然に聞こえるかどうかというのは重要な要素だと思うのだけど、では「台詞が不自然だから下手」かといえば、一概にそうとはいえないと思う。
作品の背景とか演出の意図に合わせて、敢えて不自然な言い方をしたり、棒読み気味に台詞をいっている場合もあるから。
物語の中において、いかにリアリティがあるかどうかのほうがより重要じゃないかと思う。
それと演技って、台詞や表情だけでなく、しぐさ、歩き方も含めてのことであるのはいうまでもない。

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コメント

こんばんは。精力的に成宮君の作品を見られてますね。
原作ともども見てないものばかりなので、きつねさんとのジェネレーションギャップを感じます。ずぼらなので映画も年に数本しか見ないんですけどね。
成宮君出演の「あいのうた」は見てます。忘れていて途中からとかですけど。我が家では彼はいまだに「たっくん」と呼ばれていて、私も「たっくんには澪がいるでしょ」などと言いながら見ています。私は彼のことをそんなに美形とは思わないけれど口角がきゅっと上がったところなどは愛嬌があって可愛いと思います。そう言えば、「ウルルン」で訪れた中国の奥地の村の家族のお姉さんが彼のことを気に入って、何くれと無く世話をやいていたのを思い出しました。
あんまり記事と関係ないことばかり書いてしまってごめんなさいね。

投稿: azami | 2005年11月17日 (木) 23時27分

コメントありがとうございます。
この原作を読んだのは映画を見てからですけど、原作者の吉田秋生の漫画は以前・・・20年くらい前にリアルタイムで・・・愛読していたことがあるので、ジェネレーションギャップは・・・どうなんでしょう。
「たっくん」は残念ながら見逃してしまったので、12月下旬にDVDが出るのを待ち遠しく思っているところです。
「たっくん」役の前と後で、見かけだけでなく声の出し方も違うので、父親役を経験したのは、大きな転機だったのかもしれないですね。

投稿: きつね | 2005年11月18日 (金) 01時05分

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