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2006年2月15日 (水)

映画「山猫」

BS2 衛星映画劇場放送予定
山猫 完全復元版 IL GATTOPARDO 1963年・イタリア/フランス 3月24日(金) 後7:30~10:38

DVDを買いたいと思いつつ、6300円という価格に躊躇していたので、放送されるのはとてもうれしい。
この映画は、高校生の時にテレビで見たのが最初。
その時は、やたらと長く感じて、「バート・ランカスターがアメリカ人なのにちゃんとイタリアの貴族に見えるのはすごい」とは思ったものの、「クラウディア・カルディナーレ(アンジェリカ役)が下品」とか「アラン・ドロン(タンクレディ役)が貴族に見えない」とか難癖をつけて、途中で見るのをやめてしまった。
でも、それから何年かしてから原作の文庫版を読んで、折りよくリバイバル上映をやっていたのでそれも見にいったら、かつての自分の鑑賞力が未熟だったことを思い知りました。
アンジェリカは「粗野だけど勢いのある新興勢力」を象徴しているわけで、それが監督の狙いなのだから「下品」というのは批判として的はずれだったし、タンクレディも老公爵との対比になる「若さ」を示す存在なので貴族らしさはそもそも主眼ではなく、でも、実はちゃんと貴族に見える。そう見えなかったのは自分の知識不足のせい。
タンクレディが「サリーナ公爵邸を訪れて、猟犬とたわむれながら公爵一家に挨拶する」というシークエンスがあるけど、颯爽とした身のこなしが闊達な貴族の若者そのものだったし、舞踏会のシーンでも微妙な心の動きを表現していて、「アラン・ドロンって演技の上手い人だったんだー」と認識を改めた。
だいたい、私が気づくような「貴族らしくなさ」があれば、監督のヴィスコンティが気づかないはずがなく、OKを出すはずがないのですね。正真正銘の貴族出身なのだし、完ぺき主義者で俳優の演技指導には厳しいことでも知られていたのだから。

それ以外も映画全編に原作が細部にわたって反映されていて、「映画と原作は別物」派なんだけど、「山猫」に関しては原作を読んでから見るほうがわかりやすいと思った。
ただし、映画が「原作を読まないとわからない」という描き方をしているわけではなく、映像の中の情報量が多くて、うっかりすると見過ごしてしまいそうだから、です。
これは原作に忠実でありながら、原作を超えた稀有な映画、だと思う。

ただ、「山猫」を「面白いか?」といわれれば、正直「ものすごく面白い」とは思わないのです。
一つには、古代ローマからバロックくらいまでのイタリアの歴史には興味があるけど、この物語の背景になっている統一運動あたりには関心がないせいもある。それに長い。
シチリアの歴史に限定しても、両シチリア王国の頃のほうが華やかで面白いし。
でも、「山猫」に描かれたシチリアの風土、貴族の佇まい、衣装、ニーノ・ロータの音楽、没落する運命にある貴族の心情、そして何より監督のヴィスコンティの美意識は、一度は見ておく価値があると思う。「経験する価値」といったほうが良いかな。口幅ったい言い方ですが。

映画「オペラ座の怪人」のクリスティーヌの衣装は、「山猫」のアンジェリカのドレスを参考にした、ということで、この映画が「資料」として参考にされる時代になったことには、時の流れを感じてしまった。
映画を「映像資料」として捉えることには、味気なさを感じなくもないけれど、「愛人/ラマン」のメイキングで、監督のJ.J.アノーが、映画の中の衣装や風俗の時代考証について「この時代のこの地域(つまり1930年代のヴェトナム)を描いた映画は今までにはない。この先、この映画がスタンダードになるんだから(考証は)正しくしなくてはならない。」と語っている場面があって、なるほどと思ったものだった。
後の時代の人たちのためには、ヴィスコンティとかアノーのような美意識の高い監督がきっちり時代考証をした映像を残しておくことは必要だと思う。
もちろん、映画として楽しめるに越したことはないけども。

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コメント

ヴィスコンティ懐かしいです。
「山猫」は観た覚えがあります。殆ど忘れてしまったけれど、クラウディア・カルディーナーレの笑い方が強烈だったのを覚えています。
「ベニス」や「地獄に堕ちた・・」などの作品は今観るとちょっと重いかなと思いますが、初期の作品は新鮮かもと思います。彼は新しいものに惹かれながら、自分の中にある貴族の耽美的退廃的なものに回帰していった作家だったという感じでしょうか。本物だったから凄かったと思うし、もうあんな映画が創られることはないでしょうね。
彼の女優のキャスティングが(カルディナーレやロミー・シュナイダー等)好きでした。

投稿: azami | 2006年2月21日 (火) 17時06分

コメントありがとうございます。
ヘルムート・バーガーが好きだったことから、「ルートヴィヒ」、「地獄に堕ちた勇者ども」のドイツ2作品が好きでした。今の気分にはちょっと重いのですが。
映画を撮る能力だけならば追随する人はこれからも現れるでしょうけど、教養と美学をあわせもった監督となると、ヴィスコンティが最後の人かもしれません。
病気のために、いくつかの企画が流れたのが残念です。
ヴィスコンティの「失われた時を求めて」が見たかった。

投稿: きつね | 2006年2月23日 (木) 00時00分

はじめまして、トム(Tom5k)といいます。
アラン・ドロンのファンとしてのヴィスコンティファンです。
わたしはドロン主演の『異邦人』が、とても観たかったです。
フォルカー・シュレンドルフ監督の『スワンの恋』は、御覧になりました?
わたしは、彼がヴィスコンティの後を追っていける唯一の演出家かと思っています。

投稿: トム(Tom5k) | 2006年3月12日 (日) 10時13分

トム(Tom5k)さん、コメントとTBありがとうございます。
「スワンの恋」は偶然にテレビで見ていて、この映画でアラン・ドロンが演じたシャルリュス男爵が非常に貴族らしかったことが、「山猫」を見直そうと思ったきっかけの一つでもありました。
それ以外も、ゲルマント公爵夫人の赤い靴の挿話が入っていたりと、原作へのリスペクトが感じられる映画だったと思います。
フォルカー・シュレンドルフは、この「スワンの恋」と「ブリキの太鼓」を見ましたが、どちらも心に引っかかる映画ですね。


投稿: きつね | 2006年3月13日 (月) 22時26分

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» 『山猫』~映画においては、すべての人間の言いぶんが正しい~ [時代の情景]
 わたしはルキノ・ヴィスコンティ監督の映画における知性は、彼が若いころにジャン・ルノワール監督の助監督をしていた時代の影響が大きかったのではないかと推測しています。ルノワール作品『ゲームの規則』には「映画においては、すべての人間の言いぶんが正しい。」とのセリフがあり、これはヴィスコンティ作品の悲劇の土台となっている思想ではないかと思われるのです。「が正しい」という言葉を「をすべて認める」と読み替えるとよくわかります。 ゲームの規則 / 紀伊國屋書店  彼の作品はすべて... [続きを読む]

受信: 2006年3月12日 (日) 10時02分

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