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2006年2月13日 (月)

ティムシェル(汝、意思あらば、可能ならん)

土曜夜のテレビ朝日のSmaStation5でジェイムス・ディーン特集をやっていて、長年にわたる勘違いが一つ判明。
ずっと「エデンの東」で、ポール・ニューマンがジェイムス・ディーンとキャルの役を争ったと思っていたのだけど、ポール・ニューマンがテストを受けたのはアロン役だったのか、と。

「エデンの東」は、映画→テレビドラマ→原作の順で見ている。
原作は三代にわたる長大な物語で、善と悪の対立、原罪からの解放がテーマ(「BOOK」データベースからの受け売り)。
映画は原作の最後の一部分を描いたもの。
設定もストーリーもほとんど原作どおりでありながら、映画と原作でここまで異なる印象を与える作品も珍しい。どちらも紛れもない傑作なのだけども。
テレビシリーズはサリナスのレタス畑の風景などは映画と同じだったけど、ほぼ原作に忠実な内容で、やはり全体的に映画とは印象の異なる作品になっていた。こちらも面白かったけど。

キャルとアロンの母ケイトは売春宿を経営する女で、アロンはその事実を知らされたショックから自暴自棄になって入隊して、のち戦死してしまう、というところは映画と原作は一緒なのだけど、原作では母のケイト(キャシー)が、ただ娼婦というだけでない、もっと絶対的な悪、「善意」を欠いて生まれてきた邪悪な人間として描かれている。
ケイトは裕福な中流家庭に生まれ育ち、両親とも平凡で善良な人たちで、彼女の悪は環境のせいではなく生まれつきのもの。
トラスク家の使用人リーは彼女について、こんなふうに語っている:

「あなたのお母さんは一つの謎です。他の人達と違うと思うのですよ。お母さんには何かが欠けているんです。思いやりかもしれない。あるいは良心かもしれない。自分の中にもその人を感じることができて初めて人を理解することができるものだけれども、あなたのお母さんという人は、私は私の中に感じることができない。お母さんのことを考えたとたんに、私の感覚は暗闇の中にまよいこんでしまう。何がほしかったのか、何を掴もうとしたものか、私にはさっぱり見当もつかないのです。お母さんは憎しみにあふれている人だった。しかし、なぜ憎いのか、何が憎いのかとなると私には分らない。一つの謎ですよ。」


邪悪な母ケイトに対し、父アダムは並はずれて善良な人物であるため、他人の悪意を感じとる感覚が鈍く、したがって周囲が気づいたケイトの「悪」も理解できない。
人の心を支配する術を知りつくしているようなケイトが、善良な(善良すぎる?)アダムには力を及ぼすことができず、ある種の恐怖心を抱いているところが面白かった。
キャルは善良な父親を深く愛しつつも自分の中に邪悪な母ケイトの血を意識して苦しんでいて、こんなふうに言う。

「僕がお母さんを憎むのは、僕にはなぜお母さんが逃げて行ったのか分るからなんだよ。僕には分るんだ--僕の中にもお母さんがいるんだから」


映画には出てこなかった中国人の召使いリーは深い学識と洞察力を持つ、いわば「賢者」ともいうべき存在で、あまりにも善良すぎるアダムを助けながら子供たちを育てていく一家の精神的支柱。
そのリーがキャルを諭す言葉がとても感動的です。

「あなたには、それと反対のものもあるんですよ。いいですか! それがなければあなたは迷うことさえないでしょう。不精な道をとってはいけない。すべてを血統のせいにして言い逃れるのは易々たることです。そんなことは決してやってはいけませんぞ。さあ--忘れないようにリーの顔をよくごらんなさい。どんなことをやろうと、あなたのやることはあなたのせいなんですよ--あなたのお母さんのせいではありませんよ。」

映画の父親は厳格でキャルは「ひねくれてしまった不肖の息子」だけど、原作のアダム(キャルの父)は厳格な人ではなく、兄アロンをより愛してはいるものの、決してキャルを疎んではいないし、辛く当ったりもしていない。
アロンとキャルは双子で、葛藤はあるものの兄弟仲は良いし、キャルのほうが頭が良く、そのことはキャル自身も自覚しているし、周囲も認めている。
「父親がキャルのプレゼントであるお金を拒絶する」というプロットは同じでも、映画は愛されていないと感じているキャルの父親に対する様々な感情が徐々に積み重なっていって、誕生日のプレゼントを機に爆発した、という感じなのだけど、原作のキャルは、愛されていないからではなく、「もっと愛されたい」と思っていたのにそれが叶わなかったために衝動的な怒りにかられる、というところが違っている。
お金を拒絶することも、厳格さというよりは、アダムが突出して善良で潔癖な人柄であるためで、リーもキャルに対して「そういう性分なんですから」と言う。
原作では、キャルが愛に餓えていたためではなく、自身の「悪」に負けたことが悲劇の原因で、それをどう償うかが最後の主題になっている。
そして、「ティムシェル(汝、意思あらば、可能ならん)」という言葉につながっていくのですね。

映画は原作のテーマを換骨奪胎して親子愛に焦点を絞っていて、原作を読むとそこが物足りない点でもあるのだけど、焦点を絞ったことで映画としては完成度の高い傑作になったともいえるし、「父親の愛情をひたすらに求める息子」という映画のキャル像は、ジミー・ディーン以外には考えられない。
でも、原作どおりに映像化するとすれば、ポール・ニューマンの乾いた個性のほうが、複雑な内面を持つキャルのイメージに近かったかも、なんてことを思ったりした。
テレビ版でキャル役を演じたサム・ボトムズはポール・ニューマンに近いイメージだったし。
なので、ポール・ニューマンがアロン役でテストを受けていたことが意外だったわけです。

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