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2006年4月

2006年4月27日 (木)

才蔵の七変化

騒いでいるわりに「風神の門」の物語に全然触れていないのだけど、かいつまむと「京に出てきた若き伊賀忍者・霧隠才蔵と仲間たちの青春群像劇」といったところ。
物語の背景は、関が原の戦いから12年が経過した慶長17年から約四年間。
徳川家は江戸に幕府を開き、大坂ではまだ豊臣家が勢力を保っていた時期から大坂落城まで。

本放送時は、影のある徳川方忍者・獅子王院が才蔵と人気を二分、もしくは才蔵に優る人気を博していて、磯部勉目当てに俳優座(当時の所属)の舞台を見にいく女性客が増えた、なんていう記事を読んだような気がする。
今でいうと内野聖陽みたいな感じだろうか。所属する劇団は違うけど。
で、青子と獅子王院のサイドストーリーがドラマ「風神の門」を忘れがたくしたことは認めるにやぶさかでなく、私も大好きなのだけど、やはりそれは霧隠才蔵の存在があればこそだと思う。
「陽」の才蔵がいるからこそ、獅子王院の「陰」の部分が引き立ったというか。

型破りな主人公霧隠才蔵を演じているのが三浦浩一で、これはもうキャスティングの大勝利。
「はまり役」って、このためにある言葉かというくらいにはまっている。
存在感と「振り向きざまの笑顔」で「これが霧隠才蔵なんだ」と心から納得できてしまう。
この才蔵さま、やたらと動作が大きいし、大声を出すし、「なにーーっ」「なんだ、それはなんだっ」とリアクションがいちいち大げさだったりと、従来の時代劇の演技とは大きくちがっていて、どこかに「ミュージカルの動き」と書いてあるのを見ておおいに納得。
最初のうちは台詞のタイミングが唐突で、そこが青二才という感じだったけど、物語の後半になると、同じ「なにーっ」という台詞の言い方もこなれてきて、ちょうど才蔵の成長と同期しているよう。
ただ、三浦浩一は決して存在感や勢いだけで演じていたわけではなく、細かい部分に目を向けると、刀の持ち方とか縁側への腰掛け方、座敷への上がり方と座り方などはきちんと「時代劇の動作」をしている。それも演じているという感じがしないくらいに自然に。
動作が自然で違和感がなかったからこそ、あの型破りな演技の新鮮さが引き立ったのだと思う。

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いくさはいやじゃ考

「風神の門」のDVDを大坂冬の陣の和議交渉まで見たところ。
この中で分銅屋の信乃が「いやだな、戦さなんて」つぶやくのも、大納言家の姫・青子が「戦さは良うない」と言うのも、とても自然に感じて共感できるのに、「功名が辻」の「戦さはイヤでござりまするっ」にはなぜあんなにも違和感を感じた(はっきりいうと『むかついた』)のかについて、ちょっと考えてみた。

「風神の門」の物語が始まる慶長17年(1612年)は、いわゆる戦国時代が終結してからおよそ20年が経過していて、あいだに関が原の戦いはあったけれど、非戦闘員が無差別に巻き込まれるという戦いではなかったから、登場人物の多くは「戦争を知らない子どもたち」でもある。
公家の青子はもちろん、信乃も戦乱とは縁がなかっただろうし、彼女たちにとっては多少物騒ではあっても平和が常態で、「大坂冬の陣」は親しい人間が関わりを持つ初めての戦いといえる。
そんな彼女たちが身近な人々を喪うかもしれない状況に臨んで「戦さはイヤ」と思うのは自然な心情。
もちろんそう感じるのは時代背景のためだけでなく、信乃と分銅屋に出入りする面々とのそれまで交流とか、青子と才蔵、青子と獅子王院の紆余曲折がしっかりと描かれていて、キャラクターとしても物語としても破綻がないから共感できるのだと思う。


一方、「功名が辻」の物語が始まった時点は戦国時代真っ只中で、足利将軍家の権威は失墜、群雄割拠で、平和というもののイメージがとても曖昧模糊としていた頃。
戦さで父母を亡くした子どもが戦さに対して「漠然とした」嫌悪を感じていたとしても、それを言葉ではっきりと主張するとなると話は別。「戦さはイヤ」って、平和のありがたみを知っているからこそ出てくる発想だと思うから。
千代はそもそも「戦さじゃない時代」を知らないのだし、父親も地侍なのだから「戦さでどう手柄を立てるか」「どう生き延びるか」を考えることはあっても、一足飛びに「戦さはイヤでござりまする」という思考に至るのは非常に不自然だし短絡的だった。

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2006年4月25日 (火)

功名が辻・第16回

うーん、このところ低調だと思っていたけれど、この回はひどかった。
千代が泣き喚くシーンが続いて鬱陶しいのでチャンネルを替えて、そろそろいいかと思って戻すとまだ千代が泣き喚いている。なんですか、この単調な演出は。
源助が柵の設営のために長篠に赴くのも、プロ意識から自分の仕事の成果が気になって引き返すという筋書きも良いと思うのですよ。それによって戦さの悲哀を描くのも良いと思う。
でもね、話の運び方、描き方があまりにもベタすぎる。
出陣前に千代が出しゃばることからして不自然だし、あんなに大騒ぎをしたら展開が読めてしまうじゃないですか。
源助の仕事ぶりを淡々と、でもじっくり描き、柵の効果をもっと視覚的に見せてから源助の死を描くとか、源助の悲劇を描く方法は他にもあったと思う。
それを適当な回想シーンと会話だけで処理しようというのは発想が貧困だし、結局うんざりさせられただけで終始してしまった。

この調子で秀次登場は大丈夫なのか、ちょっと不安になってきた。

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2006年4月20日 (木)

「風神の門」~設定と言葉遣い

先日購入した「風神の門」のDVDを見続けている。
今は第18話の「開戦前夜」まで見たところ。
面白いことはもとからわかっていて、だからDVD-BOXを買ったわけだけど、昔見た時よりもはるかに面白く感じている自分がいます。
こんなにも面白いドラマだったのかと、今こうして見られる幸せを噛みしめている毎日です。

おばあちゃん子だったので、祖母に付き合って子どもの頃から時代劇はそれなりに見ていたものの、時代劇ファンではないし、忍者物が好きというわけでもない。
どちらかというと史実に基づいた大河ドラマのほうが好きだし。
原作も司馬遼太郎の作品の中での好きな度合いはそんなに高くない。面白いことは面白いですけどね。
でも、このドラマの「風神の門」はものすごく好きだったし、今も好き。

前にも書いたとおりドラマ版「風神の門」は原作とは設定その他を大きく変えてあって、主人公・霧隠才蔵は原作では「ニヒルな大人の男」なのが「明朗快活な熱血漢の若者」になっている。
だけど原作の底に流れている「時代の香り」みたいなものは厳としてドラマにも感じられるし、設定を大きく変えたとはいっても、「甲賀=主従関係で動く」「伊賀=主従関係をもたない」等、物語の核ともいえる部分は尊重していて、ご都合主義で史実を変えるような暴挙は一切なし。

昔見た時は、ただただ「なんて斬新で面白いんだ」と思ったけど、今見るとただ闇雲に目新しさを狙ったのではなかったんだなと思う。
いうなれば、正統派の時代劇の作り方を知っている人たちが敢えて狙った斬新さ。
弾けるところは弾け、抑制するところは抑制した描き方をしている。
それと、登場人物が皆その立場や性格に合った話し方をし、その人らしいことをしゃべるのも、このドラマの優れたところ。
言葉遣いからだけでも、登場人物の立場、それぞれの関係、気持ちのうえの距離感などがだいたい把握できる。

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2006年4月18日 (火)

ト書き演技

テレビの話題をもう一つ
「ジャポニカ・ロゴス」のスペシャルで若村麻由美が「ト書き女優」と紹介されたのに笑ってしまったけど、もちろん若村麻由美はト書きを演じるのが上手いだけの女優ではなく、ちゃんと役作りができる人です。
で、このところ「風神の門」のDVDに夢中で、当時20歳だった小野みゆき、21歳だった樋口可南子の演技とくらべてしまうせいもあるのだけれど、最近の若手は「ト書きしか演じない人」がわりと目につくような気がしている。
この間の「功名が辻」でも、小りん役の長澤まさみが、カツラは似合っているし感情表現は悪くないのに(声が甲高いのはしかたがない)、どうしても「くノ一」に見えなくて。
同じく「功名が辻」で、武田鉄矢演じる五藤吉兵衛が金八口調で千代に語りかけていた場面がコミカルで面白かったのだけど、あれは金八口調ではあっても金八ではなく、あくまでも「金八口調で語る五藤吉兵衛」なんですね。で、それは武田鉄矢が「五藤吉兵衛とはどういう人か」を自分で考えて演じているからなんだと思うのです。
でも、長澤まさみに限らず、若手の多くは喜怒哀楽の表現の演技はそれなりに見せるんだけど、その役が「どんな人なのか」を考えていないように思えてしまうことが時々ある。
「アウトラインのない塗り絵みたい」とでもいうか。
もちろん、ちゃんと出来ている若手はいるし、長澤まさみにしても「深呼吸の必要」は良かったから、監督や演出によるところもあるのかもしれないけど。
昔のほうが演技指導が厳しかったのかな、と思ったり。

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節度とスマートさ

一昨日のことになりますが、テレビ東京で放送していた夏木マリの追跡番組(っていうの?)に成宮君が出ていたとのこと。
残念ながら私は見逃したのだけど、その番組を見た人がその様子を話してくれたので、そのことをちょいと。

成宮君が登場したのはラルフ・ローレンのパーティ。
ボロボロのジーンズ(たぶんビンテージ?)の足元からズームイン、夏木マリと会話した後2人でカメラの前からフレームアウト、という感じだったらしい。
で、この時の夏木マリに対する話し方が「芸能界の先輩に対する節度」を感じさせるもので、それでいながら立ち去る時はさりげなく腰に手を回してエスコート。
その節度ある態度と洗練されたエスコートぶりの兼ね合いが絶妙だった、と感心していた。
曰く「そこいらの若い子とは違うと思った」そうな。

目撃者(?)は、「あらしのよるに」を見た時にも「ガブは一瞬素の獅童に戻っているところがあるけど、メイはずっとメイになりきっているね」と感想をもらしていたくらいで、俳優としての成宮寛貴のことはそれなりに認めているものの特にファンではない人。
でも、その番組の成宮君を見て大いに気に入ってしまったみたいである。

成宮君って、ほんとに大人受けするんだなーと改めて思ってしまった。
私もいい加減大人だけども。

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