雨月物語
先日、久しぶりに「雨月物語」を読み返してみた。
豪農の放蕩息子・正太郎が献身的な若妻を裏切り遊女と出奔、妻の怨霊にとりつかれる話「吉備津の釜」の、「そなたという御仁は心に鬼を持たぬゆえ、外から鬼に狙われる」という一節にちょっと衝撃を受けました。
今回読んだのは石川淳訳の「新釈雨月物語」なのだけど、このくだりは訳者が挿入したものであるらしく、以前に別の現代語訳を読んだ時には記憶になかったし、原文には見当たらない。
でも、ものすごく深いし、内容にも合っている言葉だと思ったのです。
この放蕩息子の正太郎というのが、仕事はしないし、遊郭に入り浸るし、妻をだましてお金を用意させ、そのお金をもって愛人と逃げるという、ほんとにひどいヤツなのだけど、不思議と人には好かれる男でもある。
妻の磯良のことは嫌っているわけではなくて、ただ束縛されるのがきらいで、気の向くままにしているだけで、他人に対して害意も悪意も持っていない。
「ごめんなさい」でなにもかもが済むと思っているような、そういう若者。
くだんの言葉は正太郎が助けを求めた陰陽師に言われるのだけれど、「心に鬼を持たぬゆえ・・・」とは実に言い得て妙だと思う。
自分の心の中に鬼を持っていればこそ、他人の心の鬼を慮るようにもなるのだろうから。
ところで、今回この「雨月物語」を読もうと思ったのは、豊臣秀次が出てくる「仏法僧」を読みたくなってのこと。
「仏法僧」の関白秀次殿下は「烏帽子と直衣姿の貴人」として現れて、つき従う人々と風流に詩歌の解釈なぞをしていたかと思うと、一変して「はや修羅の時にや」と騒いだりする。
姿を見た旅人二人を修羅に連れて行けと命じたりと怖い一面を見せるけれど、「いまだ命尽きざる者ですよ」と重臣にたしなめられるとあっさり聞き入れるあたり、この関白秀次は意外と素直。
怖いんだかなんなんだか。
実は、崇徳院の出てくる「白峯」と「仏法僧」とで記憶がごっちゃになっていたのだけど、崇徳院のうらみがましさに比べると、「仏法僧」の秀次一行はなにやら楽しんでいるようにさえ見える。
そこがまた怖かったりもするのだけれど。
好青年の秀次も良かったけど、「仏法僧」のこの世のものならぬ関白秀次も成宮君で見たくなった。
大河ドラマで見せた衣冠束帯姿の優雅さと、舞台で見せた異形の天草四郎の妖しさの両方を合わせ持つ関白秀次を見てみたい。
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