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2006年12月11日 (月)

不適材不適所(追記あり)

NHK大河「功名-」で時代設定ミス

 同局によると、脚本家の原稿には年代部分が空欄になっているケースが多く、専門家を交えた時代考証会議で正確な数字を入れ、台本を作成するという。だが今回は、放送シーンの時代設定を分かりやすくするため、時代考証会議後にプロデューサーらが最初の台本になかったせりふを追加した。その際、誤った年数を書き加えたが間違いに気付かなかった。「今後、ミスのないチェック態勢を検討したい」としている。

なんだかよくわからないのだけど、「脚本家の原稿には年代部分が空欄になっているケースが多く」って、大河ドラマを執筆する脚本家は、年代を把握せずに脚本を書いている、ということでしょーか?
小学校低学年レベルの足し算を間違えたスタッフのミスもアレだけど、年代部分を空欄にしたまま脚本が書けるということのほうが驚きです。
脚本家たるもの、歴史ドラマの執筆中は年表くらい参照するものだと思っていました。
だいいち年代を把握していないと前後関係とか混乱しないか???
時間の経過ってドラマにおいてものすごく重要なことでしょう。まして歴史物においては。
こんなやり方をしていたら登場人物の性格も一貫性がなくなるだろうなー、と妙に納得してしまった。

ところで、時代劇チャンネルでは週に二話ずつ「独眼竜政宗」を再放送中(連日放送は終了)。
「独眼竜政宗」はNHKの大河ドラマの中では人気の高い作品だけど、個人的には手放しで好きな作品ではなかった。ジェームス三木の脚本も渡辺謙の演技もケレン味があり過ぎて、
でも、登場人物は家臣や侍女の一人ひとりまでキャラが立っているし、伊達家の出来事と中央で起きている出来事とのバランスも良く、なんだかんだと初回から最終話まで見た作品。
先週見た「弟を斬る」の回も、実母による息子の毒殺、実兄による弟の成敗という骨肉の争いをテーマにしながら、その理由や心情はしっかり描きつつも、決して「誰かのせい」にはしていない。
そこが今年の大河「功名が辻」との出来の違いです。

「功名が辻」については、私自身が原作をそんなに好きではなかったので、放送前から「多少の改変や補足」(あくまで多少)は覚悟していたけれど、大石静のエピソードの取捨選択と脚色は想定外というか論外だった。
で、結局これは、原作や題材の如何によるものではなく、脚本家個人の資質の問題で、大石静はたとえ伊達政宗を題材に脚本を書いたとしても恋愛を絡めずにはいられないんだろうと思う。
(玉木宏を気に入って、康豊の出番を増やすというから、てっきり一豊の片腕としての場面を描きこむのかと思ったら、細川ガラシャと恋愛だったし)
まあ、根本的に歴史に興味のない人を大河ドラマの脚本に抜擢したNHKのミス、ですね。
視聴率は良かったということだから、「功名が辻」を好んだ人も多かったようだけど、「真っ当な歴史ドラマ」が見たかった者としては、別に大河ドラマでこれを見なくてもいいじゃん、と思わないでもない。
「大奥」とかいろいろあるでしょ、と。

その「大奥」も、時代劇チャンネルで連日、映画版のCMが流れているけれど、主演の仲間由紀恵が大河ドラマとまったく同じ表情同じ口調なのには目が点。
絵島と千代が一緒ですか。
時代劇専門チャンネルは「大奥」の舞台挨拶の日に有馬稲子・片岡孝夫(現仁左衛門)主演の「絵島生島」を放送するとのことで、コレハイヂメデスカ。

「功名が辻」の放送が始まる前は、仲間由紀恵のキャラクターと原作の千代が良い具合に化学反応を起こすことを期待したけど、今は、逆に鼻につくようになってしまいました。千代も仲間由紀恵も。
しばらくは「Trick」も「ごくせん」も見る気がしないくらい鼻についてる。
で、これは司馬遼太郎原作及び一領具足つながりでの連想だけど、仲間由紀恵に演じさせるのなら「夏草の譜」の菜々(長曾我部元親の正室)にでもすればよかったのに、と思う。
「夏草の譜」の菜々は「すごい美人だけど、落ち着きのない不思議ちゃん」という設定なので、賢妻の千代よりは仲間由紀恵には合っていたんじゃないかと思う。

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新しくエントリーするのもなんなので、ここに追記します。

「司馬史観」という断定的な表現はしっくりこないけれど、その小説世界から「司馬遼太郎の描く世界観・歴史観」はおぼろげながらもイメージしているものがある。
私が今回の大河ドラマ「功名が辻」に失望したのは、原作に忠実でなかったからでも、他の作品のエピソードを流用したからでもなく、司馬遼太郎の世界観・歴史観に対する敬意を欠いている、時として貶めてさえいるように感じることが多々あったから、です。
ドラマを作るにあたって、なにがなんでも原作に厳密に忠実であれとは思わないし、司馬遼太郎の他の作品からエピソードを持ってくるのはむしろ大歓迎だけど、エピソードの扱い方がぞんざいに感じられてしまった。
そのドラマが「司馬遼太郎原作」で小説のタイトルをそのまま使っている以上、読者としては司馬遼太郎の戦国を舞台にした諸作品をイメージするし、期待してしまうものなのだけど、司馬遼太郎の既読者への配慮が欠けているドラマだったと思う。
一作読んで終わり、という人にはわかりにくいことかもしれないけれど、司馬遼太郎にハマって、芋づる式に読んだファンにとっては、「功名が辻」、「国盗り物語」、「関が原」etc.は、たしかに独立した作品ではあるのだけれど、連動して一つの時代、一つの世界を形成するものにもなっているのです。
連作とかサーガみたいなイメージ、というんだろうか。
いえ、司馬遼太郎の作品も既読者も軽視するというのなら、それでもかまわないんですよ。
ただ、それなら大石静のオリジナル脚本として製作すれば良かったんです。
もちろん、その場合は司馬遼太郎の名前も「功名が辻」というタイトルも、小説の内容も使用しない、ということで。

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