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2007年1月14日 (日)

古典的ミステリーとのつきあい

「悪魔が来りて笛を吹く」の感想を見ていたら、「犯人わかっちゃった(誇)」的な感想がいくつか目に留まって、あのドラマのツボはそこじゃないだろう、と思ってしまった。
そう思うのは、私自身があまり犯人を考えながら読んだり見たりしなくて、先に犯人を知ってから読むのもそんなにイヤじゃない、というのもあるし、古典的な作品で、今さら犯人当てもなかろうというのもある。
金田一耕助モノは一見極悪人じゃなさそうな人が犯人、というのは定番でもあるし。
それと、ドラマとしては、先に犯人が示されていて、探偵が追い詰めていく過程を描く倒叙モノのほうが好きです。
先に謎解きの部分を読んで、それから最初から読み始める「勝手に倒叙モノ化」を試してみたこともあったけど、これはすぐにやめました。
「どこでフェイクを入れたか」とかがわかるので構成の粗さがしをするにはいいけれど、物語の楽しみ方としては不健全だろう、と。

ただ、自分が犯人さがしをしないといっても、マナーの観点から、未読の人に推理小説の犯人や話の結末をしゃべったりはしませんが。
で、ミステリーの楽しみ方として犯人を自分で推理するというのはもちろん王道なのだけど、私はWhoよりはWhyに興味がある。

最近のものはほとんど読まないので、コアなミステリーファンとはいえないものの、海外の古典に属する推理小説を手当たり次第に読みあさった時期があった。
その中で、今でも時々読み返したりするのはアガサ・クリスティとエラリー・クイーン、それからシャーロック・ホームズ。
読み物としては、フットレルの「思考機械」とかソーンダイク博士は好きだし、面白いと思うけど、今の時代に映像にするとツッコミどころ満載なんだろうなと思ったり。
ヴァン・ダインも映像向きじゃなさそうだし。
アガサ・クリスティもエラリー・クイーンも、初期の作品はトリックに凝ったけど、後期になると「怪しげな人をずらっと並べる」手法をとらなくなって、登場人物の性格や犯行の動機を掘り下げた描き方をするようになっていった。
そういうもののほうが映像化した作品にも深みを感じる。

ちなみにシャーロック・ホームズは、推理というよりもホームズのキャラクターや19世紀末の雰囲気が好きで読んでます。

稲垣版「悪魔が来りて笛を吹く」は事件の動機とそのドラマ性に重点を置いた描き方をしていて、そこがしっくりきた。
成宮寛貴ファンとしては、成宮君の演技力に依った脚本と演出だったことが単純にうれしくて冥利に尽きる、というのもありますが。

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