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2008年3月26日 (水)

寝かしておいた感想など

本を読んだ後、映画を舞台を観た後に、すぐに感想を誰かに言いたくなる時と「ちょっと寝かしておこうかな」という時があって、村上春樹の「海辺のカフカ」は「寝かしておいた」一冊。
内田樹の本を読んでいて、「海辺のカフカ」から引用されていた部分が印象的だったので、私も引用をば。

想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。一人歩きするテーゼ、 空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとって本当に怖いのはそういうものだ。
個別的な判断の過ちは、多くの場合、後になって修正できなくはない。過ちを進んで認める勇気さえあれば、大体の場合取り返しはつく。しかし想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。
宿主を変え、かたちをかえてどこまでも続く。そこには救いはない。うんざりさせられる。

この一節は好きな場面だったのに、寝かしっぱなしで忘れかけていた。
思い出させてくれて良かった。
「想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ」って、言い訳バッシングする人たちに当てはまるのではなかろうか。


もう一つ、最近「寝かして」いたのが昨年11月に観にいった舞台の「カリギュラ」。
「ケレアが一番好きだわ」とか「セゾニア役の若村麻由美は上手いなー」とか、シピオン(勝地凉)の「私は汚さずに批判する」という台詞が心に残ったわ、とか、断片的な感想ならばいろいろと思い浮かんだもののうまくまとまらなかった。
カリギュラが発する言葉の内容が、皇帝らしくないというか、「こういうことを皇帝が考えるかな?」と思ってしまったので。
といっても、舞台上の小栗旬は「若き皇帝」然としていて、その仕草や演技からは塩野七生の「ローマ人の物語」に「子どもの頃は軍団のマスコットとして兵士たちに愛されて、彼なりに知性もあった」と書かれていた「カリグラ」像を髣髴とさせたので、感じた違和感は演技に対してではなく台詞そのものに対してのもの。
で、これも、少し前に内田樹の「ためらいの倫理学」を読んで、そこにカミュのことが出てきて、少し違和感の正体がつかめた・・・ような気がした。
舞台上でカリギュラによって語られる台詞は、アルベール・カミュの主張そのものなんだなぁと。
まあ、主人公が作者の考えを語るのは当然なのだけど、それがかなりストレートだったのが違和感につながったのだと思う。たぶん。
暴君といわれた若き皇帝が20世紀の思想を語ったわけだから、そりゃ違和感もあるだろう。
それにしても、カミュは自分の意見を語らせる存在としてなぜあえてカリギュラを選んだのだろう、なんてことを考えてしまった。

なお、現在も「寝かしている」のが、映画「スウィーニー・トッド」だったりする(^_^;)。

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