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2008年3月31日 (月)

表現力という迷路~急がばまわれ

今季のフィギュアスケートはスカパーのJSportsを契約して見ました。
若干痛い出費ではあるのだけれど、その価値はあったと思う。
男子・女子とも実況・解説ともに落ち着いていて非常に心地よく競技を堪能できた。
女子の村主千香も良かったけれど、男子シングルの樋口豊・田村岳斗両氏の解説も素晴らしい。
まあ、地上波も、問題なのは実況のアナウンサーであって、解説に特に不満はないんですが。

男子の最終グループを録画で見直したのだけど、ともに不調だったランビエールと高橋大輔の演技にちょっと思うところがありました。
ランビエールはジャンプがことごとく決まらなくて高橋以上に不調だったし、表情が映し出されると「調子悪いんだなー」とわかる浮かない顔をしていて、演技全体にも元気がなかったけれど、一つ一つの振り付けの「型」が決まっていて、そこはとても美しかった。
なんていうか、振り付けのための手足の動きは無意識にできているんじゃないかと思うくらい。
高橋大輔に足りないものがあるとしたら、そこではないかと思う。
気持ちが乗っている時はほんとうに素晴らしい表現をするけれど、まだ、気持ちが乗っていないと動きの型が決まらないように思うので。
強化部長が高橋大輔について「確実な四回転を2回」と発言をしているけど、どんな選手でもジャンプの出来は好不調の波があるわけです。
それよりも「不調な時にジャンプ以外の演技の質をどこまでキープできるか」のほうが課題なのではないかと思ったりした。
能力の下限を底上げする、とでもいうか。
スケートに限ったことではないけれど、日本はとかくピークの時の力で能力を推し量る傾向があるけど、それよりも「やや不調」くらいの時にどこまで出来るか、のほうがモノを言うことが多い気がする。世界では。

と、つらつら述べてきたけれど、ほとんどの選手は「表現したいなにか」を内に有していて、表現力がそれに追いつかないために、それぞれレベルは違えども「表現力の向上」はすなわち「表現する技術の研鑽」を意味することになる、と思う。
これはスケートに限らず、表現すること全般にいえることだけど。

でも、それとは様相を異にするのが浅田真央。
「表情とかを鏡の前で研究したい」と、顔で表現できるスケーターを目指すとのことだけど、「バレエで動きを習って、まだ表現力が足りないらしいから次は表情の研究でも」という感じで、このコメントからは「表現力は内面から生まれるもの」という基本的なことが欠落しているように思える。
表情を鏡で研究って、役者なら演技の一環として顔面の変化が必要になることもあるだろうけど(「アダムス・ファミリー2」のクリスティーナ・リッチーとか)、フィギュアスケートを見ていてそこまで求めることはないし。
※村主章枝の「顔芸」にしても、別に鏡を見て研究してやっているわけじゃなかろう。

浅田真央の場合、技術よりも「表現したいなにか」を持っていない、もしくはイメージが貧困なことが問題なわけで(というか技術には問題ないと思う)、いくら手足が思い通りに動かせても(顔面筋肉を動かせたとしても)「表現したいイメージ」を持たないことには表現力という課題は克服できないのは自明の理。
身近に表現力がある姉の浅田舞がいるのだから、普通ならそれを見ていれば「表現力とはなにか」に思い当たりそうなものなのだけど、それができないのだとしたら、それはスケート以外の勉強をしてきていないせいだと思う。
表情の研究よりも一般教養を身につけて情操面を養うほうが先決・・・と、誰かアドバイスしてあげればいいのに。
いっそ課題そのものを認識していないのなら楽だろうけど、当人は自分の問題点をおぼろげにでも認識しているわけで、自己解決する術を持たないというのはもどかしくないかな。
それも、他の人たちにはないというか、逆の悩みなわけだし。
大人になってからでは遅いのはバレエやピアノだけじゃなく、「考える訓練」も同じこと。
スケートの技術を身につけるために情緒を育てる時間を削ってきたのだとしたら、その代償はこれから高くつくと思う。

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