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2008年3月24日 (月)

愛のムチとは、殴る側だけが使う言葉

このところ「言い訳」を理由にスポーツ選手を批判するのが目につくのだけど、気になるのが、その姿勢と態度に疑問とか逡巡とかいうものが見られないこと。
はじめに批判ありきで、「言い訳はよくない」を正論と信じて疑わない。
時として「正論を言うことに酔っている」ようにさえ感じてしまう。
もちろん何かを批判する時というのは、自分の意見なり観点なりが正しいと思ってのこと(本当に正しいかどうかはともかくとして)だけど、ことこの「言い訳」を理由にする場合、「自分の意見」の是非を考える段階というのがなく、「言い訳はダメ」という価値基準だけを絶対的なものとしているように感じられる。
そして、絶対だと思っているから、置かれた状況とか事情を酌むこともなく、思いやることもないし、「すべて自分の責任です」という言葉以外は一切耳を傾けることなく、すべからく「言い訳」と決めつけてしまう。
もちろん、マスコミのフィルターのことなども考えない。
いってみれば問答無用で斬って捨てるようなもの。
これって、とても危ういことだと思う。
歴史ファンとしては、そういう風潮に西南戦争や日中戦争前を想起してしまうのです。

「言い訳をしない」ということが美徳であることは否定しないけど、絶対的なものかといえばそうは思わない。
しかも、ことは役人の不正などではなく、スポーツの勝敗とか、スポーツ選手の言動なわけです。
叱咤激励の名目のもとに「人の傷口に塩を塗る」行為が人として正しいことなのかといえば、それは否、だし。
そして、本音と正論は違うし、正論が常に辛口であるわけじゃないよね、と思う。
もちろん、説明と弁明も違う。

「愛のムチ」とは、殴る側だけが使う言葉である。殴られる側にとっては、ただの痛いムチである。

私が一番好きで気にかけているスポーツ選手は、余計なことをしゃべらない寡黙なサッカー選手だけど、それでもことあるごとに批判される。
なので、何を言おうが言わなかろうが、叩きたい人は叩くものだとわかっているのですけどね。

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