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2008年7月

2008年7月30日 (水)

ヘタウマとカワイイの奥深さ

「マーティ・フリードマンが語る“欧米人がJ-POPに興味を持つ理由”」というインタビュー記事を読んでいたら、「ヘタウマ」と「カワイイ」についてのくだりがなかなか面白かった。
曰く「アメリカ人がヘタウマの魅力を理解するには音楽の次元をいくつも超えないといけない」。
「アメリカ女性は『かわいい』を目指していない」

「かわいい」を目指すことがよいのかどうかは面倒な議論になりそうだけど、ヘタウマの魅力を・・・の部分は納得してしまった。


少し前に、中高年の人たちの間で、カラオケでシャンソンやカンツォーネを唄うことが流行っている、というニュースをテレビで見たのだけど、ウチの母もそう。
で、母の影響もあって私自身はフレンチポップスを時々聴きます。
シャンソンとカンツォーネには「演歌の魂」みたいなものを感じてしまうので苦手なのだけど、60年代と、ちょっと飛んで90年代あたりのフレンチポップスはわりと好き。
メロディもボーカルもポップで可愛い。
お気に入りのフレンチポップスの中にジェーン・バーキンも入っていて、これは「究極のヘタウマ」だと思う。
声量はないし音程は不安定だけど、真似しようにも出来ない、いうにいえない味がある。
「無造作紳士」や「バビロンの妖精」を音程を正確に歌い上げてもちっとも面白くないし。
一昔前の日本のアイドル歌謡曲なんかはフレンチポップスの影響が大きかったと思うのだけど、「下手=かわいい」と勘違いしていた向きもあったと思う。
でも「下手」と「ヘタウマ」は似て非なるものである。


「紅の豚」でマダム・ジーナがアメリカ人のカーティスに言う台詞:
「恋はいつでもできるけど、ここではあなたのお国とは違って人生が少し複雑なの」が秀逸で、アメリカ人のセンス全般には若干の偏見を抱いていたのだけど、「鈴木隆行ベストアスリートに選出」というニュースを聞いて、意外と奥深いというか、諧謔のセンスのある人もいるのだなと見直した今日この頃。


ところで、日本語の「カワイイ」はフランス語として定着しているということで、それは「カワイイ」という概念を表現するフランス語にないから、だそう。
そういえば、去年のテレビフランス語講座でも講師が「カワイイ」を使っていたので、「ほんとにフランス語になっているんだー」と思ったものでした。

実家にいる猫が体重が6kgを超えていて、可愛いけどデカい、デカいけど可愛い。
で、これをフランス語で表現するとしたらどうなるのだろう?と考えてみたら、ピッタリの単語が見つからない。
mignonじゃないし、charmantも違う気がするし。
でも、「カワイイ」なら、確かにデカさも含めて可愛さが伝わる気がする。

というわけで、以前は、若い女の子が黄色い声で「カワイイ!」を連発することに、「なんでもかんでもカワイイって言うんじゃないっ!」と怒ったものだけど、ちょっと考えを改めました。
それでも、語彙は豊富であるに越したことはないと思うけれど。

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2008年7月29日 (火)

華氏451的社会

「ハリー・ポッター死の秘宝」の英語版ペーパーバックを買いました。
別に原書を読むことが好きなわけではなく、すらすらと読めるわけではないけれど、翻訳版の価格設定が許せなくて。
翻訳版が出るまでは原書版のペーパーバックが出なかったことも腹立たしい。


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DS版ドラクエ5を勧められながら、あまり気乗りせずにいるのですが、決して興味がないからではなくPS2版から時間がたっていないからだったりする。

凶悪事件が起こるたびにゲームの是非が取り沙汰されるけど、一口にゲームといってもアクションゲームとRPGは違うし、RPGの「経験値を貯める」という概念を子どもたちが知るのは悪くない・・・むしろ良い面もあると思う。
RPGに夢中になるタイプの子どもは、付随して本を読んだりするし。
なので、十把一絡げにするのは違うんじゃないかと思っている。
ゲームの普及それ自体よりも、本を読まない人が多くなったことのほうが、社会への影響が大きいんじゃないかと思う。

そんなことを考えている時に思い出すのが、レイ・ブラッドベリの「華氏451度」。
「華氏451度」の世界では、人々はラジオとテレビで情報を与えられ、本は有害な情報をもたらすものとして所持することを禁じられている。
そして、その結果、人々は思考力と記憶力を失い、わずか数年前のできごとさえ曖昧な形でしか覚えることができなくなってしまっている。

周囲の「本を読まない人たち」を見ていると、「思考力と記憶力を失い・・・」というのは、あながち小説の中だけの大げさな表現でもないと思う。

私の周囲にいる映画好き・演劇好きは、読書の習慣がある人とまったくない人に分かれるのだけれど、その人たちを見ていて思うのは、同じ作品であっても本を読むか読まないかで解釈や感想が異なることが多く、ほとんどの場合は読書する人の感想のほうが信頼できる。
というか、読書習慣のない人の感想は、感想という以前に内容がなくて、「観た」という事実以外は覚えていないんじゃないかと思うことさえある。
これは旅行も然り。

映画「ダビンチ・コード」に、ウェストミンスター寺院の前に立ったラングドンの前にニュートンの葬儀の光景があらわれるという場面があるけれど、これはとても好きなシーン。
(映画版「ダビンチ・コード」は批判もあるけれど、「ここは映像で見たい」という場面をきっちり映像化した点で評価しています)
本を読んで憧れていた場所、歴史的な物語の舞台になった場所に行った時など、このシーンに近い感覚を持つことが、時々だけどある。
自分が、歴史の一場面の中に立っているような感覚。
映画のように鮮明では、もちろんないけれど。
リゾート地は別として、予習せずに歴史的な街並みや建造物を観光しに行く人って、そういう喜びをハナから捨てているわけで、それで楽しいのか?というのは、好みの問題になるのだろうけど、旅行の余韻がないためにすぐに退屈し、追い立てられるように「次はどこに行こうか」と考える様子を見る限りは、少なくとも幸せそうではなさそうに見える。
なんていうか、現在と未来だけに目が向いて、過去が消えてしまっている感じ。
「現在と未来」って、一見前向きだけど、やはり過去もあっての人間だから。

社会的に禁じられているわけでもなく、娯楽に時間とお金を費やせる程度に生活に余裕もあるのにもかかわらず本を読まない人が少なからずいる、というのは、ちょっと憂うべきことかもしれないと思う。
ただ、私自身CS番組とHDDレコーダーのない生活は考えられずiPodは常に携行と、レイ・ブラッドベリが描いた人々と酷似した生活をしているけれど、本もまた手放せないので、AV機器・ゲーム機器の普及のせいではなく、幼少期に読書の面白さを知るかどうかによるという気がする。
お母さん・お父さんたちには「読み聞かせ」をしっかりやって欲しいものです。

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2008年7月28日 (月)

コロー展/国立西洋美術館

国立西洋美術館のコロー展に行ってきました。
たいていの場合、六本木は新国立美術館とサントリー美術館の、そして上野は国立博物館、東京都美術館、西洋美術館のどれかをハシゴすることになります。
この日も国立博物館の「対決!巨匠展」と「コロー展」のハシゴ。
巨匠展ではお正月じゃないのに長谷川等伯の松柏図を見られたこと、長沢芦雪の虎図襖が個人的な収穫。
非常に混雑していたので早々に退散して西洋美術館へ向かった。
なお、芦雪の虎は勇壮さの中に猫らしい可愛さがあったのがツボでした。

コロー展は比較的ゆったりと鑑賞できた。
酷暑の中、風景画の田園や木立、人物画の端整な佇まいには癒されました。
ただ、バルビゾン派と呼ばれるようになってからの、靄のかかったような、湿気と草いきれを感じる鬱蒼とした木立の絵はもちろん好きなのだけど、イタリアを描いた初期の絵のはっきりとした輪郭と明るい色調に強く惹かれる。
モネもそうなのだけど、後年になって輪郭よりも印象を描くようになる画家の、初期の頃の優れたデッサン力が垣間見られる絵、というのが無性に好きなのです。
そして、当然のごとく図録購入。

ルーブル美術館とオルセー美術館所蔵の作品は、貸し出し中でなければ見ているはずなのだけど、駆け足だったせいか、あまりにも多くの名画を一度に見すぎたせいか、コローの絵は記憶に埋もれてしまっていた。
人間の(自分のか?)記憶の限界をひしひしと感じるとともに、「テーマを決めた企画展」というのも大事だなぁと思った。
優れた企画展を多く見ることができるという点で、日本は捨てたもんじゃないですね。

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2008年7月15日 (火)

努力と壁

努力というのは辛いものだけど、努力することに疑問を持たない人もいたりする。
大まかに分類すると、「1.努力をすることが嫌いな人」、「2.好きではないし、疑問を感じつつも必要とあれば努力する人」、「3.努力をすることに疑問を持たず、労を惜しまない人」の三つに分けられると思う・・・というか、ここでは分けます。

子どもは成長の過程で、大人にやいやい言われてイヤイヤ努力しているうちに、その必要性を感じるようになったり、壁にぶつかることで努力に疑問を持つようになったりする。
コストパフォーマンスを考えたりして。
大人になってからも疑問を持たずに努力できるタイプの人というのは、子どもの頃から努力による成果を出し続けてきた人である、といえると思う。
そういう人は、往々にして素質にも恵まれている。
物事が思い通りにいかない原因のかなりの部分は、能力が足りないか努力が足りないかによるもので、能力のある人が努力をすれば“たいていの場合は”それ相応の結果が出ることになる。
ただ、努力ではうまくいかないこと、ただ耐え忍んだり、待つことしかできないこともあって、「努力は人を裏切らない」と信じていた人が、そういう壁にぶつかると他の人たちよりも深い痛手を負うことになる。

なんでこんなことを言っているかというと、身近にそれで挫折をした人間がいるからなのだけど、皇太子妃の体調不良もこれにあてはまるかもしれない、と思う。
何かの勉強とか練習など、具体的な目標を持った努力をすることは、きっと全然苦にならないのだろうけど、今抱えている悩みはそれでは如何ともしがたいものだったのだろう。


「努力は人を裏切らない」と言ったのはジェフ千葉の巻誠一郎で、「努力をしても報われるとは限らないけど、努力をしていないとチャンスが来た時につかめない」と言ったのは鈴木隆行です。
鈴木の言葉のソースを捜すと家が大変なことになるのでご容赦願いますが、こういう主旨のことを言っていたのは確か。
個人的に賛同するのは後者です。

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2008年7月13日 (日)

以心伝心

「日本人は表情が乏しい」というのは、昔から言われていたことで、私自身そんなふうに思い込んでいた時期もあるけれど、今は「はたしてそうかな?」と思っている。
逆に、外国人はそんなに表情が豊かか?、というのもあって。
少なくとも知人の外国人に、日本人と比べて際立って表情が豊かな人というのは思い当たらないし、旅行先で出会う外国人も坦々としたタイプの人が多い。
そりゃ、なかには「喜怒哀楽が激しいなー」と思う人もいるけど、そういうのはどちらかというと少数派。
私自身、表情が豊かとはいえないと思うけど、それで誤解されたという覚えはなかったりするし。
ちょっとした眉の上げ方一つ、視線の変化からも、それなりに感情の機微は読み取れるものだと思うから。
以心伝心というのは国を越えてもあると思う。
それと、これは日本人同士にもいえることだけど、愛想云々よりも真面目さとか礼儀正しさがものをいうことが多い。
とはいえ、「Yes or No」をはっきり表明することは、もちろん必要ですが。

小説を読んでいても、寡黙で愛想がわるい主人公を擁する物語は多いし、人気も博している。日本も海外も同じく。
なので、寡黙さ、無愛想というのは、必ずしも否定的に捉えられてはいないことが多いと思う。
登場人物の感情の動き、ユーモアは、共感できる部分、国を越えて相通ずる部分もたくさんあるし。
作中に出てくる諸外国の生活習慣や文化は、時々ピンとこないものもありますが。
共通点があって当然というところからスタートしたら、違う部分ばかりが目につくようになるけれど、最初から違って当然と思って見れば、しだいに「なーんだ、案外同じじゃない?」と感じることも多くなる。
感情をあまり表に出さない人のことをとやかくいいたがる人って、微妙な感情の変化を読み取るのが苦手で、読み取れない不安によることが多いんじゃないか、不安だから「わかりやすい感情表現」に頼ろうとする、といえるんじゃないかと思う。


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表情がないといえば、猫もそんなふうに言われるけど、ずっと見ていると、ある程度は気持ちの推移がわかるようになってくる。
「警戒しているな」「興味はあるけど、怖いから近づけないんだな」「人恋しいのかな」など。

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2008年7月10日 (木)

リアルなファンタジー、都合のよいリアル

気がつけば、ずいぶんと日が経ってしまったけれど、映画「ナルニア国物語~カスピアン王子の角笛」を観ました。
予告編を見た時は「ここまで壮大な話だったっけ?」と疑問に思ったりもしたけれど、楽しい映画だった。
第7作まで製作されるのか不安もあるけれど、今のうちにティルダ・スウィントンのジェイディスで「魔術師のおい」を撮って欲しいな。


ところで、ファンタジー映画は予算の関係から大作映画にならざるを得ず、そうすると日頃はファンタジーとは無縁の人も見ることになる。
ある、ファンタジーには基本的に興味のない人に、「カスピアン王子の角笛」の感想を聞く機会があったのだけど、「アスランが出てきて大団円」が気に入らなかった、と言っていた。

原作を知らないとこんなものなのかなーとも思ったけど、、現実の生活では日常のルールを守り、地道に努力しなくてはならないからこそ、お話の中だけでも世界の独自のルールや魔法を楽しもう、というのが、一般的で、そして健全でもあるんじゃないかと思うので、この感想を聞いて、ちょっと考えてしまった。
ファンタジーに「公平さ」を求めるタイプの人が実生活でもリアリティを追求し公平性に厳しいのであれば、少なくとも筋は通ると思うのだけど、そういうわけではなく、実際はむしろ甘かったりするし、一方で、現実や日常を題材にしたドラマにには、ご都合主義のストーリー展開を望んだりもする。

おとぎ話の世界に公平さを求める人がいる一方で、ご都合主義のシンデレラストーリーの大河ドラマが高視聴率を取っているということに、「これで大丈夫なのかな」と思ってしまう。


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2008年7月 9日 (水)

BBSとブログ

BBSとブログを混同・誤用しているのを見かけたのだけど・・・。

所定のライターによるエントリーがあって、それに対するコメントやトラックバックがつくのがブログ、BBSというのは不特定多数がアクセスして意見を交換する場、ということになると思うけど、今時、その区別がつかないというのは不思議な気がする。
今や日常的なツールなのに。
なかにはコメント欄がBBS化しているブログもあるけれど、だからといってブログとBBSが同じものかといえばやはり違うし、ある程度の期間ネットにアクセスしていれば自然にわかると思うのだけども。
もちろん、日常的にインターネットにアクセスしていない人は知らなくて当然なので、「ネットを利用しているにもかかわらず」ということですが。

用語を混同するのはネット初心者によくあることといえなくもないけど、ブログ機能などはどこにも付いていないサイトを指して「ブログ」と呼んだり、某匿名巨大掲示板をブログと同一視するというのは、ちょっと大雑把に過ぎやしないかと思う。


些細なことではあるんだけど、こういう、一般的に区別されていることを区別しない、もしくは区別することを疎かにする人って、ある意味「空気読めない」タイプなんだろうな、と感じてしまう。

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2008年7月 7日 (月)

ポケットにライ麦を

今、ミステリ・チャンネルでアガサ・クリスティ原案(←)の「ル・テスク家の殺人」というフランスのドラマを放送している。
「ポワロのクリスマス」を下敷きにしていて、面白いといえば面白いのだけど、わずかな設定を除いて、もはや「何の話だ?」という変りよう。
原作は読んでいても、ドラマの犯人が誰なのか見当もつかない状態です。
と思ったら、最終回の謎解きの部分は見事に原作通りだった。
で、「原作」扱いでこれだと「えーーー」と思っただろうけど、「原案」というのがミソですね。

※「篤姫」も「徳川慶喜」も「功名が辻」も原案にすれば、もう少し大目にみられたかも。


クリスティ作品では、ミス・マープルの長編シリーズも放送中。

アガサ・クリスティは手当たり次第に読んでいるのだけど、本をすべて手元に置いておくと片付かないので、読み返さないだろうなーと思うものは実家に送っている。
その中で「ポケットにライ麦を」(ドラマは先々週放送)は、送ってしまうか手元に残すかで悩んでしまう本。
今のところ手元にあるのだけど、内容自体はクリスティの中ではそんなによくないのです。
伏線の張り方が中途半端だったり、話の展開に強引さが目立ったり。
それを何故手放せなかったかといえば、ひとえに終盤の一節が印象だったがゆえ。

以下、ネタバレ

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2008年7月 2日 (水)

フラメンコとボレロ

日曜日、「ドリーム・オン・アイス」を見たのだけど、圧巻だったのはステファン・ランビエールwithナハロのフラメンコ。
これは永久保存版。
坊主頭のポエタも「太陽の没することがなき帝国と呼ばれた時代のスペインの貴族」といった風情で悪くなかったけど、やはり髪はあったほうがいいな。
振付師とのシンクロした動きはゾクゾクしたし、相変わらず手の先、足の先まで神経の行き届いた演技で、いいもの見させてもらいました。

体調不良ということでいささか懸念のあった安藤美姫ですが、「ボレロ」は予想外に良かったです。
発熱した後ということで、目がちょっとトロンとして若干元気のなさは見られたけど、上半身の使い方、特に腕の動きが以前よりもずっとしなやか。
もともと情感のある演技をする選手だけど、このボレロでは、それに技術が追いついてきたように感じた。
昨季「カルメン」、「サムソンとデリラ」と演劇性の強いプログラムだったことも表現力を向上させるのに与っているんではなかろうか。急がば回れっていうか。
バレエの練習着を思わせる黒と赤の衣装も素敵で、シンプルなデザインと足元の演出がボレロに合っている。
振り付けはベジャールを意識していると思うけど、安藤の腕の動きから連想したのは、ベジャール振付でもジョルジュ・ドンではなくマイヤ・プリセツカヤのほう。
「カルメン」ではマイヤ・プリセツカヤの依頼で編曲されたというシチェドリン版を使用しているし、ボレロもプリセツカヤつながりだったりすると面白いのだけど。

ほとんどの選手が、音楽にも振付にも衣装にも、自分なりのこだわりや思い入れを持っているだろうけど、その中でもランビエールと安藤美姫には、一味違ったセンスの良さを感じることが多い。
音楽や踊りはもちろんのこと、スケートとは直接関わらないことに対する造詣・・・というと大げさだけど、こだわりや嗜みが感じられる。
別にそういうこだわり等がなくてもフィギュアスケートはできるだろうけど、背景や教養が感じられるプログラムや演技のほうが個人的には好き。

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2008年7月 1日 (火)

落書きについて思うこと

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の落書きの件、岐阜の短大生、京産大に続いて、高校野球部の監督にも事は及んでいるようですが。

魔女狩りのようになるのはどうかと思うけど、これが「たかが落書き」かといえば、それは「否」で、発覚した件に対してだけでも、"ある程度の"社会的制裁が下されて然るべきだと思う。
発覚した中で、高校野球部の監督のケースは、ちょっと扱いが難しい。
これで解任というのは厳しい気もするけれど、修学旅行や遠征の引率をすることもある立場だから、甘い処分ではしめしがつかない。

去年、若者5人がオルセー美術館に侵入してモネの絵画を破損した事件があったけど、「貴重な、美しいものを傷つけた」という点では同じだと思っている。
大聖堂の件は公衆道徳の問題、オルセーの件は明白な犯罪である、という線引きはあるにしても。


私は落書きをする趣味はないけれど、それは公衆道徳の念の強さというよりは(一応、そういう気持ちは持っているつもりですが)、そもそも落書きという行為に興味がない。
はるばる日本からフィレンツェまで出かけて、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂を目の当たりにして、「よーし、落書きしよう」と思うに至る心理というのは理解しがたい。
観光するのに油性のフェルトペンを持っているのも謎。
「旅の思い出を持ち帰りたい」という心情なら理解できるし、そのためにカメラを持っていくのだし、記念品もお土産も売っている。
自分の名前を書き残したいとは思わないな。
「人間には二種類ある。落書きする奴としない奴だ」ってことなのだろうか。


残念なことに、そして、程度の差はあれ、洋の東西を問わず文化財や歴史的建造物への落書きは後を絶たず、今回はたまたま犯人が特定しやすかったために騒ぎが大きくなったといえる。
問題にされている落書きをした人たちに悪気はなく、おそらく罵詈雑言を落書きしたりすることもなく、大勢の人がやってくる有名な場所に、自分の名前を、書きたかった。記念として。
この人たちには「バレないように落書きする」という発想はハナからなかっただろうと思う。
歴史的価値を含めて思い入れを持っている者にとっては迷惑至極な話だし、個人を特定できる情報を好んで書いてしまうあたり、おそるべき危機意識の欠如だけど、社会的制裁を受けているのは、落書きという行為そのものよりは悪気がなかったがゆえというのが皮肉といえば皮肉。
いずれにせよ、やっちゃいけないことだけども。


落書きからはちょっと逸れますが、勤務先を特定できる状況で、匿名巨大掲示板に書き込んでいるのを見ることがあるけど、誰が見ているかわからないのに、と思ってしまう。
で、自分の身に及ぶ危険性が想像できない人は、他人のそれにも思いが及ばないだろうから、他人事ながら見ていて危なっかしい。

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