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2008年12月

2008年12月27日 (土)

アラビアのロレンス/完全版

新宿のテアトル・タイムズスクエアにて鑑賞。
DVDは持っているのだけど、一度は劇場の大スクリーンで見てみたいと思い、行ってきました。
劇場で上映される機会もそうないことだし、上映時間の長さを考えると自分の気力・体力とも相談しないといけないし、これが最後の機会かもしれないと。

四時間弱の上映時間はお尻にはずいぶんと苛酷だったけど、思い切って出かけて良かった。
大画面で雄大な砂漠を観ることができたのは素晴らしい経験だったし、DVDでは気づかないことがたくさんありました。

理想と狂気のはざまで揺れ動くピーター・オトゥールのロレンスが素晴らしいのは言うまでもなく、彼を取り巻く一筋縄ではいかない人たちがみんな複雑で面白い。

パンフレットのキャスト紹介が古いなーと思ったら復刻版だったようです。


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李下の冠、瓜田の靴

本来、何が起こるかわからないはずのスポーツ中継で、「何が起こるかわからない!」とナレーションを入れながら、優勝候補筆頭の選手のCMがバンバン流れる、というのは、放送の在り方としてどうなんでしょ。
テレビ局には「李下の冠、瓜田の靴」という考えはないのでしょうか。

それと、26日だったかの日テレZEROのスポーツニュースコーナーで、「浅田真央と小塚崇彦にアクシデント」というから怪我でもしてしまったのかと思ったら、ジャンプで転倒したことを指しての言葉だった。
女子のフリーの6分間練習で起こったような接触事故とか、靴紐がほどけたとかいうことなら「アクシデント」だけど、試合中のジャンプの転倒は「ミス」もしくは「転倒」で、アクシデントじゃないだろうに。

これに限ったことじゃないけど、最近のテレビ局のナレーション、聞き流すと気づかないけど(まあ当然ですが)、よく聞くととんでもない言葉の間違いをしていることがよくあります。

続きを読む "李下の冠、瓜田の靴"

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2008年12月26日 (金)

ハッピーフライト

DVDになってから観ようと思っていたのだけど、予定と予定の間に時間が空いたので観てきました。
気軽な時間つぶしのつもりだったけど、ものすごく面白かった。
綾瀬はるかのノロマで亀な新人スチュワーデスの成長物語、かと思ったら全然違っていた(好きなんで、それでもかまわなかったけど)。
そういう部分もありなんだけど、一言でいえば「航空機を1便就航させることで起こるあれこれを余すところなく描いた映画」でした。
航空機のコックピット、客室、空港カウンター、整備、管制塔、気象データを伝える部署、バードストライク対策の人etc.

ANA全面協力ということだけど、よくもここまで撮らせたなぁと思う映像がいっぱい。
離陸場面のコックピットの窓の外の景色がほんとに上昇していくし。
登場人物はみんなキャラが立っていて面白かった。


最近、私が観る映画やドラマで見かけることの多い田中哲司が厳しい整備スタッフ役で出ていたけど、この役が一番好きかもしれない。


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映画の内容とは関係ないけど。
「時間つぶしに映画でも」というのは意外と難しかったりする。
いくら時間つぶし目的でも全く好みじゃない映画は見たくないし、面白そうだなーと思うと本来の予定に上映時間が引っ掛かってしまったりする。
映画を見て約束に遅れてしまうのでは本末転倒。
「興味はあるけど、積極的に劇場に行こうとまではおもわない映画」があると好ましいのですが、なかなかうまくいかないことが多いです。

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2008年12月25日 (木)

クリスマス・ソング

6日の菖蒲、10日の菊になってしまったけど、クリスマスソングのプレイリスト

Happy Christmas (Sarah Brightman)
Silent Night(Sarah Brightman)
Happy Christmas (John Lennon)
クリスマス・イヴ(山下達郎)
雪は空から降ってくる(伊藤銀次)
Farewel Blue Christmas(伊藤銀次)
Everything(Misia)
Joy To the World(Nat King Cole)
Last Christmas(Wham!)
Sweet Snow Magic(Stardust Revue)

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2008年12月24日 (水)

あすなろ白書、TRUE LOVE

SMAP×SMAPの名曲歌謡祭で、藤井フミヤと木村拓哉の歌う「TRUE LOVE」のバックに「あすなろ白書」の映像が流れていました。
「あすなろ白書」自体は流し見程度にしか見ていなかったけど、現在祭りの真っ最中の西島秀俊と、祭りの予定はないけれど昔からわりと好きな筒井道隆の二人が出演していた、という点で印象に残っています。

番組中、今井美樹の「PRIDE」の時に、スチールカメラマンが思わず口ずさんでいるのを木村拓哉が目ざとく指摘していたけど、キムタクの観察眼の鋭さはわりと好き。
キムタクのそういう鋭敏さ、「武士の一分」、「華麗なる一族」出演に見られる本格的な演技への志向、スマスマのゲストに敬意を持っている(と思しき)人が来た時の謙虚な態度から感じることなのだけど、西島秀俊・筒井道隆のような俳優としての立ち居地とか方向性を心のどこかでうらやましく思う気持ちがあるんじゃないかな、と思う。
キムタクを演じながら、どこかに「迷い」のあるところは好ましく思う点。
(なお、西島秀俊・筒井道隆の名前を挙げたのは、「あすなろ白書」で共演した同世代の俳優で、かつ一線で活躍している人、ということから。)

迷えるキムタクに比べて、自分の存在や方向性に疑いを持ったことがなさそうに見えるのが織田裕二。
「椿三十郎」の髪型は、役のリアリティよりもセルフイメージ優先で印象がよくなかったのだけど、それでいて演技にはいっぱしの意見を持っているという話を聞いたことがあるので、自己評価は一体どうなっているのだろうか、と思うんである。
人気俳優として自分のビジュアルを守りたいならそれもいいけど、「役者」としてのプロ意識に疑問を感じるのも事実なので。
迷いがないというのは一見良いことに思えるけど、「縁なき衆生」でもあるんですよね。

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月9のことなど

「ブラッディ・マンデイ」と「イノセント・ラブ」が終了。
「ブラッディ・マンデイ」のほうは大人としてはツッコミたいところもあるものの、少年ドラマシリーズっぽいテイストは面白かった。成宮君は本領発揮。
「イノセント・ラブ」は、どう言ったらいいのやら。
俳優のみなさんはとにかくお疲れ様でした。
アイデアがないなら新しいドラマを無理矢理作らなくても、昔のドラマのリメイクでいいんじゃない?と思います。
ただ、成宮君が抑えた演技を要求されたというのは良かった。
感情の振幅が大きい演技が出来る人だからこそ、抑えた演技をするようになるといいなーと思っていた。
それから表情のちょっとした癖。
これは魅力でもあるので一概になくせばいいかというと難しいんだけど、ないほうが役の幅は広がると思う。

もともと大仰でない、自然体の演技が好みなんですが、いくら台詞まわしが自然でも、叫ぶ、怒鳴る、泣く等の基本的な感情表現が下手では困ってしまう。
役作りも大きなポイント。
基本的なテクニックは最低限クリアしていないと、抑えた演技も何も「ただの大根」になってしまうし、重厚な演技が求められる役で軽いのも困る。
テクニックに長けた人は得てして技巧を使いたがる傾向があるけれど、オーバーアクト=下手ではないし、もちろん棒演技=下手とも違うし。
抑えるか表現の振幅を大きくするかの判断は、演技力というよりも知性とか感受性によるものかもしれない。

演技の出来る人が敢えて抑えたり、力を抜いているのか、自然体しかできないのかを見極めるのは、観る側の鑑賞力にかかってくる、と思う。


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スーパー、レジ、割り込み

スーパーのレジで並んでいたらオバさんに割り込みされた。
私の前に並んでいた子供連れの若い母親がオバさんの嫁だったらしいのだけど、嫁の会計が終わると当然のような顔で割り込んできた。
嫁のカゴに「これもお願い」と入れたのならまだしも、それまで脇でおしゃべりして、カゴも別なら会計も別。
「後ろに並んだらどうですか」と注意したら「一緒だからー」と言い訳。
いつからスーパーのレジがグループで順番取りしていい場所になったのかと。

腹がたったので「スーパー レジ 割り込み」でブログ検索してみたら、被害者がいっぱいいて、また驚いた。
「自分だけじゃない」というのは不思議と気持ちが休まるものだけど、割り込みオバさん(これまた、ほとんどの報告例がオバさんなのです)が横行しているというのは憂うべきことです。

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2008年12月22日 (月)

黄金の日日

このところレンタルビデオ店(DVD店?)に行く機会が増えたため、ふと思いたって「黄金の日日」を借りてきました。
といっても全部は長いので、高橋幸治の信長が多めに出演している部分を。
やっぱり高橋幸治の信長、緒形拳の秀吉は最高のコンビだと再確認。
三度の虐殺など、信長の功罪は忌憚無く描写されるのだけど、高橋幸治の信長は座しているだけで、ドラマの中の今井宗久が信長の死後は行方を絶ってしまうほどに思い入れた気持ちが納得できる。
今井宗久を演じているのは丹波哲郎で、この「黄金の日日」と「真田太平記」、それから「雲霧仁左衛門」を見ると、ただの大霊界のおじさんじゃなかったよなーとしみじみ思う。
それと、羽柴秀吉時代までの秀吉は火野正平のほうが好きで、緒形拳は信長死後のダークな秀吉の印象が強いのだけど、羽柴秀吉の頃も火野正平にひけをとらないくらいに可愛げがあってコミカルで軽妙だったんですね。
それから石田佐吉(後の三成)役の近藤正臣もいい。
明智光秀、石田三成はいろいろな人が演じているけど、どちらも近藤正臣が一番好き。

このドラマでは主人公の呂宋助左衛門が縦横無尽に活躍します。
いろんな人と関わりを持ち、ルソン(フィリピン)までも出かけていく。
でも、「助佐」はもともと主役と狂言回しを兼ねている存在なのでこれでOK。
「利家とまつ」のまつ、「功名が辻」の千代のように一つの場所にいるべき人がそこらじゅうに顔を出すのは不自然極まりないですが。「篤姫」は言うに及ばず。


以前見た時は、子どもだったこともあって、サブストーリーの石川五右衛門と堺の豪商の娘・モニカの悲恋が好きじゃなかったのですが、今見ると胸をしめつけられるように切ないです。
結婚が決まった豪商の娘を手篭めにして誘拐してしまう男と、その男を恨みつつ忘れられなくなる女。
五右衛門は、弱っていくモニカを見ることに耐えられずに捨てようとするけれど、行方不明になったと知ると今度は探し回る。
モニカもボロボロになりながらも五右衛門を追い求め、ついには五右衛門の手にかかって死ぬ。
今風に言えばダメンズということになるんだろうけど、夏目雅子のモニカはたおやかで毅然としていて、根津甚八の石川五右衛門はニヒルで危険な男の魅力にあふれている。
メインの物語にはほんっとに関係ないんですが、昔の大河ドラマは大人向けだった。

夏目雅子は当時21歳でしたが、今ドキの21歳の女優では考えられないほどの情感と哀感がありました。
根津甚八はこの五右衛門役でブレーク。
「黄金の日日」放送当時のほうが女性視聴者の男の魅力に対する感受性が豊かだったのか?と思ったりもしたけど、根津・五右衛門は今見てもドキドキするくらいカッコいいわけで、制作側が勝手に視聴者のレベルを低く設定しているんじゃないかと思う。
・・・「篤姫」の高視聴率を見るとちょっと不安になるけれど。


※どうも、最近の女性監督及び女性脚本家には「だらしない男」好きが多い傾向(あくまでも傾向、ね)があるような気がする。

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2008年12月16日 (火)

トニー滝谷

DVDでトニー滝谷を観ました。
映画の評判が良いことはなんとなく聞き知っていたし、市川準監督の「BU・SU」は好きだったし、原作は村上春樹だし・・・と思いながら見そびれていたのをようやく。
「西島秀俊がナレーションを担当している」ということに肩を押されました。
村上春樹は「風の歌を聴け」から「ダンス・ダンス・ダンス」あたりまでがとても好きなのだけど、「トニー滝谷」はそれ以降の作品ながら初期のテイストを残している短編。
映画はキャスト、映像、語り、音楽と、すべてがよかった。
イッセー尾形は、孤独に馴染み孤独を恐れるトニー滝谷を体現。
物欲のかたまりともいえる買い物依存症と透明感が両立する女性なんてそうはいないと思うけど、宮沢りえはさらりと演じていて、「服を着るために生まれてきた」妻と、求人募集に応募する女性(オードリー・ヘップバーンに似ている)がそれぞれ魅力的。
坂本龍一の音楽が美しいのはもちろんのこと、ところどころ流れるジャズ、小さな物音など、「音」全般も印象深い。

トニー滝谷の本当の名前は、本当にトニー滝谷だった


映画のかなりの部分を占めるナレーションは、ナレーションというよりはほとんど小説の朗読なのだけど、西島秀俊の声と物憂げな語り口が村上春樹の無機質で透明感のある世界に調和していて、もともと好きな声だけど、ここまで合うとは思わなかった。
これから村上春樹を読む時は「西島秀俊の声」で読むことになるでしょう。
とりわけ初期の短編は。

開かずの本棚から「トニー滝谷」所収の「レキシントンの幽霊」を引っ張り出しました。
これを読むのは、たぶん10年ぶり。

初監督作の「BU・SU」を観た印象から、市川準は映像のみでも物語を語ることができる監督だけれど、その人がナレーションを多く入れたり、ナレーションの一部を登場人物に語らせたり、というのは、それだけ村上春樹の言葉と文体をリスペクトしているということ。
基本的には映画と原作は別物で、原作を読まなくても楽しめるように作るべきだと思っているけど、この映画は例外。
原作ファンによる原作ファン--その中でも村上春樹の文体に思い入れを持つ人--のための映画。
で、それでいいと思う、というか、そこが好きです。


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ラストは原作とは違っていて、映画で原作の終わり方だと救いがない、ということなんだろうか。
それもわからないではないけど、原作の空虚な感じ、好きなんだけどな。

トニー滝谷は今度こそ本当にひとりぼっちになった。


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2008年12月14日 (日)

映画「休暇」

休暇」を観てきました。
刑務官の一人である平井(小林薫)がシングルマザーと遅い結婚をする話と並行して、おとなしく模範的な死刑囚金田(西島秀俊)の日常生活から死刑執行までとそれをめぐる刑務官たちを描いた映画です。

主人公の平井は真面目な刑務官で他人にも家族にもあまり関心を示さない人。新婚旅行中、妻(大塚寧々)に「あなた私たちに興味ないでしょ」と指摘されたりもする。
でも、妻と連れ子との新しい生活のことはとても大切に考えていて、なんとか新婚旅行のための休暇を得ようと誰もが尻込みする死刑の際の「支え役」を申し出る。
死刑執行は係わった刑務官の精神的負担が大きいため、担当になると1日の休暇、「支え役」と言われる役目は特に負担が大きいため一週間の休暇を取得できることになっているから。

死刑執行が決まったことは直前まで本人に固く秘すことになっているけれど、新人刑務官(柏原収史)と上司の三島(大杉漣)は金田に「欲しいものはありませんか」と聞いてしまい、特別な希望を叶えようと計らう。
しかし、そのことから執行命令が下ったことに気づかれて、日頃はおとなしい金田が突然暴れ出してしまう。
優しさを示すというのは難しいと思うと共に、穏やかで達観しているように見えても死刑囚が敏感で緊張状態にいることに気づかされる場面。

死刑執行の前日が平井の結婚式で、刑務官たちも出席するのだけど、新人刑務官以外は披露宴の料理がほとんど咽喉を通らず残してしまう。
そして執行の朝を迎え、それまで弁護士に上申書を書くように促されても投げやりな態度で、すべてを諦めたように淡々と過ごしていた金田も、執行を告げられて刑場に連れて行かれる時は恐怖のあまり立つこともできなくなり、刑務官たちに支えられながら刑場に向かう。
この場面が一番リアルに感じられて衝撃を受けました。
覚悟はしていても「その時」の恐怖は違うのだ、と。
実はここで反射的に涙が出てしまったけれど、それは可哀想とか感動によるものではなく、驚いた時、恐怖を感じた時に思わず出てしまう涙だったと思う。

死への恐怖とか悔恨が入り混じった金田の表情には胸を衝かれながらも(演じているのが西島秀俊でもあるし)、映画の中では金田の罪状については触れられていないけど、死刑判決を受けたということはそれ相応の罪を犯しているわけで、彼が手にかけた人たちも恐怖を味わったか、もしくは恐怖を感じる時間すら与えられずに命を奪われている、ということは心して見ました。

執行後、その場に立ち会った関係者が皆、厳粛に手を合わせて立ち去る姿が印象的。
手続きを考えれば当然といえば当然なのだけど、医師も立ち会っているんですね。
それから、求刑した検事も。

金田が、自分に同情を示す二人ではなく、規則に厳格な平井に信頼をおいていて、結婚のお祝いとして自分の描いた絵を渡し、刑に処される前にも遺書を渡す相手として迷わず平井を選んだことが感慨深い。


DVDで「カナリア」を観た時にも思ったけど、とても重いテーマだけど、描かれるべき物語、作られるべき映画というのがあって、これもその一本。
そして、そういう映画を見るかどうかの選択において、キャストというのは大きい要素だと思う。

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2008年12月12日 (金)

三年身籠る

スカパーで放送していた「三年身籠る」を鑑賞。
タイトルどおり、身籠ったまま三年間子どもが産まれてこない夫婦の話です。
かいつまむと、「妊婦の冬子は十月十日を過ぎても産気づく気配が一向に表れず、通常考えられない妊娠18ヶ月目に突入。家族を始め周囲の人間が騒ぎ立てる中、ついには妊娠27ヶ月に突入し…。(「Oricon」データベースより)」という話。


親としての自覚がなくて子どもっぽい夫が父親の自覚を持つまでの物語として見れば楽しめるし、三年間妊娠しているという設定もコメディとしてなら許容範囲。
冬子の実家が極端な女系家族であるという設定も、それ単体では面白かった。
実家に行った徹がここぞとばかりに瓶や缶の蓋を置かれて、憮然とした顔で開けていく場面なんかも笑えたし。
ヒロイン冬子の夫・徹を演じる西島秀俊は「これぞモテるダメ男の神髄」とでも言いたくなる演技で、でも、物語が進むにつれて、父親として夫としての役割や責任を自覚した顔に変化していく。
冬子のお腹に向かって「いないいないバア」、お腹の中の子どもを玩具を使ってあやしたり、というあり得ないシチュエーションがおかしい。
ただ、映画全体としてはちょっとどうなの?と思わないでもない。

荒唐無稽なコメディに徹していれば面白かったのに、中途半端に意味ありげな描き方をしたために、女の主張みたいなものが見え隠れして、それが鼻についてしまった。
徹と妹の緑子に比して、ヒロインの冬子が無条件に肯定されているのも納得できなくて。
臨月の妻がいながら深夜に帰宅して廊下に服を脱ぎ散らかしていた徹の幼稚さは論外として、情報をシャットアウトして、耳栓して過ごす冬子だって社会性が欠如しているのだけど、それを肯定したままというのは一方的な気がした。
それから、台詞と音楽の音量のバランスが酷かったのも気になりました。
西島秀俊と塩見三省は良かったのに、もったいない。

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原作?が文庫化されて書店で平積みになっていたので目を通してみたのだけど、自然分娩とか父親の自覚とか、文字になるとより押し付けがましくなって、映画に感じた「気持ち悪さ」が自分の中で明確になった気がする。
ファンタジーもしくはコメディと割り切って見る分には、妊娠期間が三年だろうが男が子どもを産もうが子どもが木に実ろうが構わないんです。
たとえば映画「ジュニア」。
真面目に考えれば妊娠中のシュワルツェネッガーの体内はどうなっているの?という疑問が浮かぶのだけど、コメディに徹していたから、野暮なことは考えずにマタニティブルーのシュワちゃんや女装したシュワちゃんを楽しめた。
「十二国記」も人間が里木に実って生まれることに特別な意味付けをしていないから、「ファンタジーの世界の設定」と割り切って読んだし。
でも、「三年間身籠ったのは私が望んだこと」なんて妙な正当化をされてしまったら、こちらも真面目につっこみたくなってしまう。
「胎児の呼吸はどうなってるの?」とか、外的刺激なしで二歳まで胎内にいたら、聴覚はともかく赤ちゃんの視覚はどうなるの?とか。
それ以前に、二歳児の大きさの赤ちゃんを自然分娩で産むのは物理的に不可能だと思いますが。


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脚本以外でも、「アイデアはいいんだけど・・・」と残念な点が目につく映画でもある。
やりたいことが整理できていない感じ。
全体的に画面がゴチャゴチャしていて、末田家のような古い日本家屋とか使われている小物とか、それぞれ監督のこだわりはあるのだろうけど、如何せん美しさを引き出せていなかった。
古アパートの雑然とした部屋に一種の美を醸しだすこともある(ex.真木栗ノ穴)ので、決して雑然としていることがダメなわけじゃないのですが。
西島秀俊が何度か見切れていたりしたのも映画としてどうかと思った点。
不安感を煽るなどの狙いがあるのかと深読みもしてみたけれど、単に雑なだけに思える。

食べ物も単体で見れば美味しそうだったけど、食べるシチュエーションが美味しそうでなく、扱いも粗雑な印象。
いっそ食べ物が小道具に徹していればそれはそれでいいのだけど、そのわりにメニューが凝っていたりと、食べ物を見せることに対するひとかたならぬ思い入れとこだわりは感じたものだから、余計に違和感を感じてしまった。

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2008年12月10日 (水)

好きだ、

これもレンタルで見て好きになってしまった。

前半は17歳のユウとヨースケを宮崎あおいと瑛太が、後半は17年後の二人を永作博美と西島秀俊が演じています。

秋田が舞台の前半の17歳パートも瑞々しくて良かったですが、しみじみ良いと思ったのは後半、17年後の二人です。
まずヨースケのモノローグが印象的。
「そいつを哀れな奴だと思った。だけど一度その場を逃げようとした俺も大して変わらない・・・」
「俺は、好きな自分が思い浮かばない。もしいたとして、そいつは今でも俺の中にいるんだろうか?」などなど。
二人は別々に17年間を過ごしてきて、とりたててお互いのことを考えていたわけでもなかったけど、東京で偶然再会し、気持ちが交錯するという、そこがいい。
永作博美は時として「自然体の演技」をしすぎるのが気になることがあって、どちらかといえば「功名が辻」の淀殿のように作りこんだ役のほうが好きなのだけど、この映画では本当に自然で透明感があって良かった。
それもただ透明なんじゃなくて、お酒の好みの変遷のように、いろいろな人生経験を経てきたうえでの琥珀色の透明感。
ヨースケが泣いているユウを抱きしめる場面は、そのタイミングや動作に17年の歳月で培われた「大人の男」が見え隠れしているのがいいです。
二人の体温とか服や頬の手触りが伝わってくるような映像も好き。

ただ「事件」はなかったほうが良かった。
好意的に拡大解釈すると、言いたいことは早く伝えないと、世の中何が起こるかわからないよ、って言いたかったのかもしれないけど。

半分ドキュメンタリーみたいな手法で撮ったとのことで、17歳の二人からいろいろな心の揺らぎを引き出すには良かったのかもしれない。
そして、17歳の二人が監督の思うところに行き着くのは、34歳の二人よりもずっと楽だったと思う。選択肢が少ないわけだから。
これが34歳の二人になると、経験があるだけに引き出しの数は格段に多くなるし、そのくせ「すじなし」みたいに成り行きまかせではなく、最終的には監督のイメージどおりに演じなくてはならないという制約があるから、これはたいへんだっただろうことは想像に難くない。
監督の中に明確なイメージがあるのなら、それをきちんと伝えれば、そのとおりに演技する力は西島秀俊にも永作博美にもあるんだから、ちょっと遠回りな手法という気がしないでもないです。
ジャズ・セッションみたいな試みをこの二人で見ることができたのは良かったけど。


DVDの特典映像で、ソウルの映画祭で「好きな自分とは?」と質問された西島秀俊の狼狽ぶりが面白かった。
適当なことを答えとけばいいのにと思わないでもないけど、それができないところが「好きだ、」(笑)

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テレビ、ドラマの節度

アイドルが「ヒトラーは偉人で演説には癒し効果がある」とテレビで発言してしまったというニュースを見て、当人が自分の意思で言ったにせよ、誰かに言わされたにせよ、テレビの制作サイドにいる人たちの歴史認識が全体的にゆるくなっているんじゃないかという気がする。
歴史認識そのものもそうだけど、そのことを世間がどう受け取るかということについての感覚も鈍っていそう。
モンティ・パイソンに「ヒトラーのいる民宿」というスケッチがあるけれど、ギャグでも相当際どい題材で、モンティ・パイソンは当然歴史を知っていて、覚悟の上で作ったわけだけど、偉人発言をしてしまった子にはおそらくなんの自覚も覚悟もなかったのだろうし、そこがほんとに危なっかしい。


ブログを見ているとNHK「篤姫」の「家定は実は聡明」説を無邪気に信じている人が少なくないようなんだけど、これって大丈夫なんだろうか。
原作や史料にあるならまだしも、ほとんど脚本家の妄想想像の産物なのに。
フィクションと割り切って見るならいいけど、「篤姫」がターゲットとしている視聴者層って、テレビを見ながら「これってほんとにあったことなの?」と聞きたがる類の人が多そうに思うんですね。イメージとして。
そういう人たちにトンデモ説が流布するのはよろしくないような気がするのだけど。
子どもや孫に伝わったらマズイでしょ。
家定が尋常な人物だったら、そもそも薩摩の分家の娘である篤姫が御台所になることもなかったはずで、四六時中人に囲まれている状況で、聡明さであれ愚かさであれ隠しおおせるとは思えない。
篤姫の前の夭折した正室が身代わりだったという説もあるくらい、そういういわくつきのところに嫁入りしながらも、夫を気づかい、未亡人になって後も薩摩には帰らずに女としての生き様を見せた、というのが天璋院篤姫の物語の肝であったはず。
(ただし、歴史的には何も貢献していないけど。唯一の使命だった慶喜擁立は失敗したし)
そこを変えられてしまうとそりゃ違うでしょと思う。

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追記:
家定聡明説は家族を描こうとしたため、であるらしく、「篤姫」の脚本を賞賛する人たちは「家族愛」に感動したのであるらしい。
でも、徳川という巨大な組織をホームドラマ的な家族として描こうとすることにそもそも無理がある。
降嫁してきた和宮に嫁の礼をとらそうとした天璋院には「家族」という意識があったかもしれない。
少なくとも嫁・姑の意識はあったようだし。
でも、和宮を嫁として扱おうとして軋轢を起こしたことについては、公武合体の意味を理解していなかったともいえるし、天璋院が徳川家を家族と考えていたことを描くにしても、小松帯刀、勝海舟まで動員して、天璋院を正当化するような描き方はしちゃいけなかったと思う。

たとえば「日本のトップ企業の経営者一族の主の先代の妻」が「○○家を守るため」と発言したとして、「篤姫」を熱烈に支持する人たちは「家族愛って素晴らしい」と賞賛するんだろうか?
そういうのを家族愛というのなら、船場吉兆の元おかみの行動だって一種の家族愛だと思うのだけど。

さらに追記:
14代将軍に家茂を擁立したことについて、篤姫の意向が反映された結果だとしたら養父斉彬に対する背信だし、篤姫の意向と関係なく決まったのだとしたら、篤姫の大奥内での発言力に疑問が生じる。
原作の篤姫は、家定の健康状態を自分に隠していたことから斉彬に対して不信を抱くようになり、そこから実家の島津よりも嫁ぎ先の徳川家を重視するようになった、という理由付けをしていた。
家定の設定を変更したことによって、大河ドラマの篤姫は斉彬の意に背いて家茂擁立を支持した正当な理由を失っているのだけど、これを「素敵!」と受け入れてしまった篤姫ファンの気持ちは理解しがたい。
篤姫にとっては、逆にイメージダウンだったと思うのだが。
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ところで、スカパーで「大奥 第一章」と映画版「大奥」を視聴。
西島秀俊が目的ですが、テレビ版の家光役は良かったけど歌舞伎役者の役はどうなんだろう?と思っていたら、表情の一つ一つの色っぽさにグッときたり、立ち姿と所作がきれいだったりと、生島新五郎が予想よりもずっとよろしゅうございました。
ただ、時代劇で演じた役としては、生島よりも家光のほうが好きだし、家光よりも相合元網(「毛利元就」で演じた)のほうが好きだけど。

もともと歴史を描くドラマが好きなので、史実をそっちのけでドロドロした展開が続くフジテレビの大奥シリーズは好きではなかったし、江戸城にいるはずの人たちが東福寺の通天橋をはじめとする京都の名所を歩いていたりとツッコミどころもたくさんあった。
でも、あり得ない設定は多かったにせよ、少なくとも史実(もしくは定説)に影響しない範囲に留めておく節度はあったし、男性の描き方はきちんとしていたから好きな俳優にも見せ場はあって、それすらなかった「篤姫」より遥かにマシに思えている自分がいる・・・。
小松帯刀も演じた瑛太も、もっと「できる子」のはずなのに、史実にない女々しい設定にする意味がわからない。
演じた人はナヨゴローが不本意だったという話を小耳にはさんだけど、さもありなん、です。
「功名が辻」でも竹中半兵衛の今わの際に「私が生涯愛したオナゴは」(泣)云々という武将らしからぬ台詞を言わされた筒井道隆が「こんな台詞を言うとは思わなかった」と言ってたし。
男性俳優は受難といってもいいですね。

幕末が舞台の「大奥」も、菅野美穂の篤姫は機転が利いて利発だったし、定説に沿った設定の家定との心の交流もしっかりと描かれていた(文句を言いながら意外と見ていたんだな、私)。
家定が「うつけ」かどうかにこだわった大河ドラマとは大違い。
#うつけだったらどうするつもりだったんでしょう、大河の篤姫は。文句でもいうのか?


フジテレビの「大奥」再評価なんて、なんだかハードルが低くなりすぎている気がしないでもないけど、それだけ「篤姫」への失望は大きかった。

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2008年12月 8日 (月)

花神(大河ドラマ)

キネ旬の記事にあまりに腹が立ったので、久しぶりに「花神」総集編のDVDを観てみた。
総集編とはいえ全部は長いので、とりあえず「おうの」が出てくる4巻を。
おうのは可愛いし、高杉晋作はかっこいい。
秋吉久美子は和宮とか田中絹代とか、素を出さずに作りこむ役のほうが意外と上手いような気がする。

「花神」は、司馬遼太郎原作で、「花神」、「世に棲む日々」、「峠」をベースに幕末の複雑な情勢を決して手綱を放すことなく描いている。
描ききった、といってもいいかもしれない。
テーマ音楽と雲のわきあがるオープニングは大河ドラマの中で一番好き。
「新しい時代を作るぞー」という希望に満ちた曲です。
今見ると、海戦の場面は模型だっていうのがわかるし、ザンギリ頭のカツラやメイクはかなり微妙なんだけど、とにかく登場人物がみんな個性があって魅力的。
中村梅之助が扮する村田蔵六はドラマを見た後に本物の肖像画を見たのだけど、あまりに似ているので爆笑してしまった。似ているだけでなく、洋学の教授でありながら攘夷家、合理的なのに情熱的という矛盾を内包した複雑な人物。
(ところで、「矛盾を内包する」のとダブルスタンダードは似て非なるものだけど、最近の脚本家は勘違いしてないですか?、大石静とか大石静とか、田渕久美子とか田渕久美子とか。)
吉田松陰(篠田三郎)の激しいまでの純粋さ、高杉晋作(中村雅俊)の若き天才ぶり、彼らを支える桂小五郎(米倉斉加年)、周布政之助(田村高廣)、伊藤俊輔(尾藤イサオ)、井上聞多(東野英心)、山県狂介(西田敏行)ら長州の面々もベストの演技。
近藤勇(竜崎勝←高島彩アナのお父さんですね)、土方歳三(長塚京三)も出演していて、箱館戦争で土方が亡くなるくだりでは「燃えよ剣」の名台詞「新撰組副長が参謀府に用ありとすれば、斬り込みにゆくだけよ」をちゃんと言ってくれます。
河井継之助(高橋英樹)は鳥肌が立つくらいに気合のこもった演技だった。

村田蔵六(中村梅之助)とシーボルトおいね(浅丘ルリ子)のロマンスも描かれていて、オランダ語と医学の新しい知識を伝授するのが愛情表現。

「花神」は今のところ完全版がないのですが、視聴率はふるわなかったにもかかわらず総集編は異例の5巻構成。
やっぱり切れなかったんだろうなーと思う。重要な場面が多すぎて。

一人の男がいる
歴史が彼を必要としたとき忽然として現れ
その役目を終えると大急ぎで去った
もし維新というものが正義であるとすれば
彼の役目は津々浦々の枯れ木に
その花を咲かせてまわることであった。
中国では花咲爺のことを花神という
彼は花神の役目を背負ったのかもしれない
彼、村田蔵六。
後の大村益次郎である。
-花神 オープニングより-

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2008年12月 5日 (金)

キネマ旬報の記事(追記あり)

書店でキネマ旬報を立ち読みしていたら、樋口尚文という人が「篤姫」と宮崎あおいの演技を絶賛するのみならず、秋吉久美子と桃井かおりを引き合いに出して「彼女たちは大河ドラマにはフィットしていなかったが、それにひきかえ宮崎あおいは・・・」というようなことを書いていたのだけど、いい加減な内容にイラっときた。

まず、フィットもなにも、桃井かおりは大河ドラマには出ていないし、もしも戦前の昭和を描いた「純情きらり」と「花へんろ」のヒロインの比較ならば、これは桃井かおりのほうが断然良かったですよ。
容姿も台詞回しも時代背景に合っていた。
まあ、桃井かおりは「花へんろ」出演時には30歳を過ぎていて、「純情きらり」の時に二十歳そこそこだった宮崎あおいとはキャリアが違うから、比較するのは可哀そうではあるんですが。

そして秋吉久美子ですが、この樋口っていう人は「花神」を見た上でこういうことを書いているんだろうか。うろ覚えのイメージで書いたのだとしたら、ちょっと許せないな。
「独眼竜政宗」の猫御前もキャラが立っていて面白かったけど、「花神」では暢気で一本抜けているところを高杉晋作に愛される「おうの」を二十歳(←勘違いしてました)23歳にして見事に作りあげていた。
記事に書かれていたヒッピーぽさなど微塵もなかったし。
秋吉久美子は他のドラマでは微妙なのもあるけど、こと大河ドラマに関しては宮崎あおいとの比較に安易に持ち出していい対象じゃない。秋吉久美子のほうが所作や役の作りこみは出来ていた。
「花神」のおうのを知ったうえでキネ旬の記事を書いたのだとしたら演技の見方を疑うし、見ないで書いたのだとしたら書き手としての姿勢を疑う。

そんなに宮崎あおいを褒めたいのか、褒めなくてはならない事情でもあるのか知らないけど、そのために先輩女優たちをおとしていいわけないでしょ。


追記:

富田靖子が結婚して子どもが生まれていたというニュースを見て、ふと思ったのだけど、先輩女優を宮崎あおいとの比較で持ち出すなら、いきなり母親世代で、アンニュイが売りだった桃井かおりや秋吉久美子を出さなくても、富田靖子がいたじゃないか。

・商業主義から少しはずれた映画が主な活動の場
・少女期の輝きでマニアックな人気
・大河ドラマに主役級で出演
・可愛いが正統派の美人ではない
などなど、共通項もあるし、ひきあいに出すならこっちでしょ
ただし、「毛利元就」は、(個人的にはケレン味が強すぎたけど)作品として「篤姫」など足元にも及ばない出来の良さだったし、富田靖子が演じた美伊の方も文句のつけようのない好演。
視聴率もそれなりに良かった。
穿った見方をすると、比較対象として宮崎あおいを持ち上げるのに不利だから意識的に避けたと思えなくもない。

なお、「少女期の輝き」と映画出演が多いという点では、薬師丸ひろ子、原田知世、斉藤由貴も該当するんですが、斉藤由貴はテレビへの露出も多かったし、薬師丸ひろ子と原田知世は「商業主義から少しはずれた映画」に当てはまらないので、やっぱり富田靖子かなーと思いました。

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