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2008年12月10日 (水)

テレビ、ドラマの節度

アイドルが「ヒトラーは偉人で演説には癒し効果がある」とテレビで発言してしまったというニュースを見て、当人が自分の意思で言ったにせよ、誰かに言わされたにせよ、テレビの制作サイドにいる人たちの歴史認識が全体的にゆるくなっているんじゃないかという気がする。
歴史認識そのものもそうだけど、そのことを世間がどう受け取るかということについての感覚も鈍っていそう。
モンティ・パイソンに「ヒトラーのいる民宿」というスケッチがあるけれど、ギャグでも相当際どい題材で、モンティ・パイソンは当然歴史を知っていて、覚悟の上で作ったわけだけど、偉人発言をしてしまった子にはおそらくなんの自覚も覚悟もなかったのだろうし、そこがほんとに危なっかしい。


ブログを見ているとNHK「篤姫」の「家定は実は聡明」説を無邪気に信じている人が少なくないようなんだけど、これって大丈夫なんだろうか。
原作や史料にあるならまだしも、ほとんど脚本家の妄想想像の産物なのに。
フィクションと割り切って見るならいいけど、「篤姫」がターゲットとしている視聴者層って、テレビを見ながら「これってほんとにあったことなの?」と聞きたがる類の人が多そうに思うんですね。イメージとして。
そういう人たちにトンデモ説が流布するのはよろしくないような気がするのだけど。
子どもや孫に伝わったらマズイでしょ。
家定が尋常な人物だったら、そもそも薩摩の分家の娘である篤姫が御台所になることもなかったはずで、四六時中人に囲まれている状況で、聡明さであれ愚かさであれ隠しおおせるとは思えない。
篤姫の前の夭折した正室が身代わりだったという説もあるくらい、そういういわくつきのところに嫁入りしながらも、夫を気づかい、未亡人になって後も薩摩には帰らずに女としての生き様を見せた、というのが天璋院篤姫の物語の肝であったはず。
(ただし、歴史的には何も貢献していないけど。唯一の使命だった慶喜擁立は失敗したし)
そこを変えられてしまうとそりゃ違うでしょと思う。

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追記:
家定聡明説は家族を描こうとしたため、であるらしく、「篤姫」の脚本を賞賛する人たちは「家族愛」に感動したのであるらしい。
でも、徳川という巨大な組織をホームドラマ的な家族として描こうとすることにそもそも無理がある。
降嫁してきた和宮に嫁の礼をとらそうとした天璋院には「家族」という意識があったかもしれない。
少なくとも嫁・姑の意識はあったようだし。
でも、和宮を嫁として扱おうとして軋轢を起こしたことについては、公武合体の意味を理解していなかったともいえるし、天璋院が徳川家を家族と考えていたことを描くにしても、小松帯刀、勝海舟まで動員して、天璋院を正当化するような描き方はしちゃいけなかったと思う。

たとえば「日本のトップ企業の経営者一族の主の先代の妻」が「○○家を守るため」と発言したとして、「篤姫」を熱烈に支持する人たちは「家族愛って素晴らしい」と賞賛するんだろうか?
そういうのを家族愛というのなら、船場吉兆の元おかみの行動だって一種の家族愛だと思うのだけど。

さらに追記:
14代将軍に家茂を擁立したことについて、篤姫の意向が反映された結果だとしたら養父斉彬に対する背信だし、篤姫の意向と関係なく決まったのだとしたら、篤姫の大奥内での発言力に疑問が生じる。
原作の篤姫は、家定の健康状態を自分に隠していたことから斉彬に対して不信を抱くようになり、そこから実家の島津よりも嫁ぎ先の徳川家を重視するようになった、という理由付けをしていた。
家定の設定を変更したことによって、大河ドラマの篤姫は斉彬の意に背いて家茂擁立を支持した正当な理由を失っているのだけど、これを「素敵!」と受け入れてしまった篤姫ファンの気持ちは理解しがたい。
篤姫にとっては、逆にイメージダウンだったと思うのだが。
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ところで、スカパーで「大奥 第一章」と映画版「大奥」を視聴。
西島秀俊が目的ですが、テレビ版の家光役は良かったけど歌舞伎役者の役はどうなんだろう?と思っていたら、表情の一つ一つの色っぽさにグッときたり、立ち姿と所作がきれいだったりと、生島新五郎が予想よりもずっとよろしゅうございました。
ただ、時代劇で演じた役としては、生島よりも家光のほうが好きだし、家光よりも相合元網(「毛利元就」で演じた)のほうが好きだけど。

もともと歴史を描くドラマが好きなので、史実をそっちのけでドロドロした展開が続くフジテレビの大奥シリーズは好きではなかったし、江戸城にいるはずの人たちが東福寺の通天橋をはじめとする京都の名所を歩いていたりとツッコミどころもたくさんあった。
でも、あり得ない設定は多かったにせよ、少なくとも史実(もしくは定説)に影響しない範囲に留めておく節度はあったし、男性の描き方はきちんとしていたから好きな俳優にも見せ場はあって、それすらなかった「篤姫」より遥かにマシに思えている自分がいる・・・。
小松帯刀も演じた瑛太も、もっと「できる子」のはずなのに、史実にない女々しい設定にする意味がわからない。
演じた人はナヨゴローが不本意だったという話を小耳にはさんだけど、さもありなん、です。
「功名が辻」でも竹中半兵衛の今わの際に「私が生涯愛したオナゴは」(泣)云々という武将らしからぬ台詞を言わされた筒井道隆が「こんな台詞を言うとは思わなかった」と言ってたし。
男性俳優は受難といってもいいですね。

幕末が舞台の「大奥」も、菅野美穂の篤姫は機転が利いて利発だったし、定説に沿った設定の家定との心の交流もしっかりと描かれていた(文句を言いながら意外と見ていたんだな、私)。
家定が「うつけ」かどうかにこだわった大河ドラマとは大違い。
#うつけだったらどうするつもりだったんでしょう、大河の篤姫は。文句でもいうのか?


フジテレビの「大奥」再評価なんて、なんだかハードルが低くなりすぎている気がしないでもないけど、それだけ「篤姫」への失望は大きかった。

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