« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »

2009年1月

2009年1月28日 (水)

改めたことはいいんだけど

過ちを改むるに憚ることなかれ、なんですが。
大河ドラマ『天地人』で長澤まさみ演じる役設定が急遽変更

俳優・妻夫木聡が主演のNHK大河ドラマ『天地人』の主要キャストである女優・長澤まさみ演じる初音が、戦国武将・真田幸村の“妹”から“姉”に、放送中にも関わらず急遽役設定が変更された。


 初音は、妻夫木聡演じる主人公・直江兼続にとって、肉体関係を結ぶ“初めての女性”。当初は俳優・城田優演じる真田幸村の妹役という設定だったが、それでは兼続と幸村の年齢差から、初音が10歳以下で肉体関係を結んだことになってしまうという視聴者からの問合せにより、NHK側が対応。番組公式ホームページに掲載されている登場人物関係図も、28日(水)より初音の設定が“妹”から“姉”に変更された。これに対しNHK広報は「年齢設定の部分で混乱や誤解を招く恐れがあるので原作通りに戻しました」とコメントしている。


 そもそも初音は史実にはない架空のキャラクターで、小説家・火坂雅志の原作では、真田幸村の“姉”となっているが、ドラマでは“妹”という設定で制作が進められてきた。一説では、長澤が妻夫木、城田よりも実年齢が若いため、その年齢差から“妹”となったようだ。だが、天正元年(1573年)、兼続は14歳で初音と出会うが、幸村は兼続よりも3歳程度若く、初音が幸村の妹ならば、10歳未満となってしまう。倫理上の観点から、NHKも設定を変更せざる得なくなった。今後放送するにあたり、設定を変更したことにより撮り直しや再編集があるのかについては「あくまで人物関係図等での紹介で妹としていただけで、本編では触れてはいないので問題ございません」と語っている。


 史実に忠実であることと、ドラマとしてのエンターテインメント性は常に天秤に架けられる問題。時として50代の俳優が、史実では20代の戦国武将を演じることもよくあること。NHKとしては、10歳未満の性交を想定するのは不適切と判断し、今回の変更となった。

早いうちに改めたのは良かったけど、視聴者からの問い合わせで・・・というのが気になるところ。
問い合わせがなければそのままになっていたんだろうか。
いい機会だから声を大にして言わせてもらうけど、こういうことがあるから原作の設定を変更するのは反対なんですよ。
原作者が設定を決めるにあたっては諸事情・諸条件にバランスをとるべく配慮しているはずで、それを安易に変えたら齟齬を来たすのは当然のこと。
「あちらをたてればこちらがたたず」になるから、変更するにしても相当な慎重さを要する。
だいたい出演者の実年齢に配慮しながら、演じる人物の年齢の確認を怠るって本末転倒でしょ。
大河ドラマは描くスパンが長いから、50代が20代を演じようがその逆であろうがかまわないけど、最低限の整合性くらいはとりましょうよ、と。
「功名が辻」の時も時代設定のミスが発覚したことがあったけど、巷には歴史好きは多いんだから、大河ドラマのスタッフにも歴史好きを集めれば、こんなミスは起こらないんじゃないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月25日 (日)

japan 蒔絵展

サントリー美術館で「japan 蒔絵 ―宮殿を飾る 東洋の燦めき―」展、を観てきました。
以前に東京国立博物館に観にいった「江戸蒔絵展」も素晴らしかったけど、今回も非常に見応えがありました。
日本国内で所蔵されている品に加えて、海外からの展示品も多く、ポンパドール夫人、マリー・アントワネットが所蔵していた品などもあって、欧州と「ジャパン」の関わりの深さがうかがえて、興味深かった。
意外だったのが、ヨーロッパの王室や貴族が所蔵していた品に大和絵をモチーフにしたものが多かったこと。
欧州の人たちが、蒔絵という技法だけでなく、日本の文物にも関心を持ち、そして好んでいたことがうかがえた。

なにしろ複製品にも同じ文様を再現していたくらい。
個人的には唐草文様とか有職文様のほうが好きなのだけど、昔のヨーロッパの人たちが大和絵を見て、日本をどんなふうに想像していたんだろう?などと考えるのはなかなか楽しい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

脚本家に自己顕示欲は要らない

「篤姫」を担当した脚本家をテレビで見かけるようになって、非常に不愉快。
話題のドラマを担当した脚本家がワイドショーのコメンテイターとして呼ばれるのは珍しくもないけれど、この人の表情には他の人には感じない強い自己顕示欲が見える。
求められてコメントしても、その言葉からは見識も機智も感じられず、作品よりも自分が目立ちたいという感じ。
以後テレビに映ると速攻でチャンネルを変えているけど、バラエティ番組でこの人の半生?を紹介したとか。
本人もテレビ局も何を考えているんだか。
放送された内容については伝聞でしか知らないのでここでは触れないけれど、脚本家がこういう形で自分を売りにする、ということがもはやNG。
自分の私生活に人に語るだけの価値があると思うのなら、それこそ小説や脚本にすればいいじゃないですか、脚本家なら。
向田邦子とか早坂暁のクオリティまで高めることができるなら尊敬します。
それを、バラエティ番組で自ら出演してぺらぺらしゃべるというのは低俗にすぎる。
「こういう人だから、歴史上の人物の人間性を捻じ曲げることも平気だったんだな」と妙に納得した。
原作をどう脚色しようかということよりも、自分をアピールすることのほうに熱中した結果がアレだったのか、と。

補足:この人を見かけたのは「とくダネ!」の金曜日で、女性タレント・女優・文化人が出演することが多い曜日。
ここに出演する人は場慣れしていない人が多くて、ちょっと居心地悪そうにしていていることが多いけど、この人は妙に悠然としていた。
これだけ悠然と構えているのだからコメントするのに慣れているのかと思いきや、話を振られてもモゴモゴ言うだけ。
私が視聴できるのは途中までなので、もっと後の主婦向けの話題で何か気の利いたことを言った可能性は否定しないけど、少なくとも、番組前半に流れる事件や話題については見解も興味もないことが丸わかりだった。
別にこの手の番組のコメンテイターの発言に何かを求めているわけじゃないけど、出演する以上は仕事の一環だろうに、まともなコメントが言おうとする努力すら見えないことに、「ただテレビに出ていることがうれしい」という自己顕示欲と図々しさを感じてしまったわけです。

大河ドラマの前後に脚本家のテレビへの露出が多かった例としては「新選組!」の三谷幸喜があるけれど、「新選組!」はオリジナル脚本だったから、脚本家が注目されるのは自然なことでもある。
それに、当時顔を出したほとんどの番組は「組!」に関する内容で、ドラマのPRが目的だった。
「一テレビ出演者」としての資質も出演の動機も、コメンテイターとして呼ばれながら、つまらないコメントしか言えず、私生活を売りにする輩とは大きく違っていた。
もっとも田渕久美子は、史実はおろか宮尾登美子の原作さえ無視していたのだから、「篤姫」についてまともなことを言えるはずもないけれど。


この人も嫌いだけど、こういう人を見て「ステキだわー」という人とも一生お友達になれないな。
子ども向けの低俗番組が問題になるけど、子どもへの影響を考えたら、オトナ向けの番組も問題になっていいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月23日 (金)

古都(映画)

スカパーの日本映画専門チャンネルで放送していた1980年版の「古都」を視聴。
山口百恵は和服が似合うし、老舗の呉服問屋の娘として育った千重子と北山杉の村で働く苗子の双子の姉妹を演じ分けていて、意外と演技も上手いな、なんてことを思いながら観ていたのだけど、京都の町家の中、街並み、祇園祭の宵山の提灯など、映像が印象的で美しい。
それから北山杉の深い緑も。
監督が市川崑だったので深く納得しました。
山口百恵引退記念映画と銘打たれていたけど、冒頭に山口百恵の歌が流れること・三浦友和が出演している以外は市川崑のカラーが色濃く出ている映画。
出演者も市川崑映画でお馴染の人が多いし、三浦友和を竜助と秀男のどちらにもキャスティングしなかったことも市川崑のこだわりかしら、と思ったりした。


両親が千重子を捨てたことを負い目に感じている苗子は千重子を「お嬢さん」と呼ぶ。
身分違いを口にして千重子に迷惑かかることを気にする苗子の慎ましさは、現代では廃れてしまった心情だなーと思う。
身分の違いなどというものはなくなっていいけれど、慎ましさがなくなりつつあるのは残念。

「古都」の舞台は昭和29年だけど、戦前の話である「細雪」のほうがいろいろとモダンで、「古都」のほうが古風に感じられるのが面白い。
「細雪」の四姉妹で因循姑息と言われる雪子でさえ、千重子・苗子よりも活発に思えるくらい。
大阪と京都の違いとか、谷崎潤一郎と川端康成の違いというのもあるんだろうけど、戦争直前の日本にはハイカラさやモダンな雰囲気があったのかもしれない。
映画「丘を越えて」で描かれたような。

「細雪」で因循姑息といわれながらハイカラな面を持つ雪子を好演したのが吉永小百合で、吉永小百合よりもずっと年下の山口百恵が古風な千重子・苗子にハマっているのも、ちょっと面白いなーと思った。
古都といえば上戸彩主演のテレビドラマもあったけど、思いのほか着物が似合っていて上戸彩を見直すきっかけになりました。
ドラマはほとんど見ていないんで、着物の着こなしだけの感想ですが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

神の雫

酒屋さんやデパートのワインコーナーのポップで見かけていた「神の雫」。
ドラマの第二話を見たのですが、面白いじゃないか。
ワイン評論家役の田辺誠一はこういう役がほんとにハマる。
ワインの味を表現するポエムの部分、真面目に見るとあれですが、ネタとして見れば非常に楽しめます。

「神の雫」推薦ワインでは、チリのスパークリングワインのエクストラ・ブリュットがコスト・パフォーマンスが素晴らしいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月22日 (木)

天地人

石田三成のキャラクターをどうするのかは気にかかるけれど、2話3話を見た限りではストレスを感じなかった。
ツッコミどころは多いけど、笑って流せるレベル。

思えば、過去の大河でも一年を通して気合を入れて見た作品は数本で、それ以外は「日曜8時の習慣」で見ていることも多かった。
気合を入れて見たくなる作品であるに越したことはないけど、所詮はテレビなのでツッコミいれながらダラダラと見ていられれば、それでもよかった。
なにがなんでも大河ドラマは重厚でなくちゃいけないとか、史実に忠実でなくてはいけないとは思わない。
ただ、やってはいけないこと、踏み越えてはいけない一線はある、と思うのです。

「天地人」は、景勝のライバル景虎の文武両道ぶりを舞で表現したり、謙信が利を捨てても義を重んじる武将であることをさりげなく描いていたので一安心。
ベタな描写もあったけど、オリジナリティを出そうとして登場人物が多重人格になったり、物語としての整合性がなくなるよりもずっといい。
髪型が変とか主人公が泣き虫とかは今のところ余裕で許容範囲で、女性たちが誰かの引き立て役ではないのもホッとする。

過去の大河ならば「殺生の道具」と言ったであろう台詞が「人殺しの道具」になっていたのは気になったけど、『殺生』を音で聞いてもわからない視聴者への配慮なんでしょう。
もっとも、そういう配慮が必要かといえば「否」だけど。
聞きなれない言葉であってもドラマには視覚的な情報もあるのだから、自然に覚えるものですよ。
特に子どもは。


川中島以後の上杉家には疎いので、ドラマを通じて知るのをちょっと楽しみにしている。
名作大河じゃなくてもいいから、習慣で視聴していられるレベルの維持をよろしく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月21日 (水)

What you want?

ワイドショーで沢尻エリカの花嫁姿を見ましたが、明治神宮で挙式するために帰国したりと、意外と古風なんだーと思っていたら、あの髪型にびっくり。
日本髪が似合わない人もいるから普通の洋髪(っていうの?)で打掛を着る花嫁の気持ちはわからないでもないし、伝統とか格式を一切否定というのも、それはそれでいいと思う。
でも、わざわざ明治神宮を式場に選びながら、打掛に奇抜な髪型を合わせたがるところがよくわからない。
自分のセンスをアピールしたいだけなら、ハウスウェディングでもなんでもやればいいし、伝統に憧れて神前式を選んだのなら、髪型もオーソドックスでいいじゃん、と思った。
これに限らず、この子は何がしたいのかわからない。自分でもわかっていないんじゃないか。

美貌を武器に芸能界をセレブ(笑)として生き抜く、という身の処し方があってもいいし、芸能界を玉の輿のステップにするのも、まあいいんじゃないかと思う。
それが出来るのも一種の才能だし、神田うのあたりはその道のプロといえる。
ただ、芸能界というからには「芸能が出来る人」を重く見てしまうし、芸のないセレブ(笑)を下に見てしまうのもまた自然な心情です。
大した出演作もなしに「女優」を名乗っているタレントが多い中、沢尻エリカにはれっきとした代表作もあるし、女優としての評価も高い。
それなのに、自らなんちゃってセレブ(笑)に身を落とすような行動をとってしまっているのが不可解で。
「別に」事件の前後に放送された映画のパブリシティを兼ねたインタビューを見たけれど、言葉の端々から自意識を扱いかねているアンバランスさはうかがえたし、年長の共演者を「彼」呼ばわりしていたのはどうかと思ったけど(事務所は教育すべし)、自分の仕事に対しては真摯に取り組んでいる子なんだなと思ったものだった。
その時に見せていた真面目さと「結婚式で自分をアピール」というミーハーな感覚がそぐわないのだけど、これは沢尻エリカの言動全般に言えることかもしれない。
キーワードはチグハグ。

だからといって、宮崎あおいのように、万事にソツがなく、自分自身に対してあまりに確信的なのも見ていてつまらないけど。
「微妙なゆらぎ」が好ましい。


---
芸能ネタついでに小室被告のこと。
この人の豪遊とかセレブ生活の報道を見て、贅沢ってなんだろう?と思った。
美味しい物を食べる・きれいな服を着る・いい家に住む、というのは誰しも望むことだと思う。
(私だったら、特別な時にしか飲まないシャンパンを週一で飲めたらいいな、とか)
小室哲哉には黙っていても相当な額の収入があって、「普通の贅沢」なら余裕で賄うことができたはず。
でも、この人にとって贅沢とは、自分が美味しかったり、快適だったりすることではなく、「人目をそばだてること」だった、と。
毎日ドンペリを飲んでも、味なんかどうでよかったんだろうな。
もったいない話です。

で、思い出したのがレアンダー童話の「ゆめみのユルク」という話。
美しいお姫様と結婚し、夢の国の王様から広大な王国をもらうのだけど、美しいお姫様は他人からは平凡な農婦にしか見えないし、王国も人からは見えない、見えるのはユルクだけ、という話。
他人に認められることが幸福感の一部を占めることは否定しないし、ユルクのように自分だけに見える王国で満足するのは難しいけど、他人が認めないと幸福感を得られないのはもっと不幸、という見本のような事件でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月19日 (月)

電気おかゆ鍋 de チーズフォンデュ

寒い日が続くのでチーズフォンデュでもしようかなとガスコンロ用カセットを買って帰ったのはいいけれど、コンロを出すのがなんだか面倒くさい。
何か良い方法はないものか・・・で、思いついたのがほとんど使っていなかった電気おかゆ鍋。
試してみたら、これが結構使える。
タイマーをまわした分だけ加熱するシンプルなタイプだったのも良かった。

次はこれでバーニャカウダを試してみよう、と思いました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

役を生きる、役を演じる

週刊文春1月22日号の阿川佐和子との対談の中で、西田敏行が「俳優と役者の違い」について語っていたのが興味深かった。

あくまでも私見ですけど、役者と俳優という言い方で考えると、役のほうに自分をスライドできる軟体動物みたいな精神構造の人間が役者=コメディアンであって、確固たる己を持っていて、顔とか肉体を微動だにせず、役を自分のほうに近づけてくるのが俳優のような気がするんです。
(中略)
高倉健さんはどう演じられても高倉健さんという居ざまが確固としてあるから俳優で、緒形拳さんは自分の肉体を『復讐するは我にあり』の殺人鬼へスライドさせて演じたような感があるから役者、コメディアンだと。


これで思い出したのがアラン・ドロンがビストロスマップに出演した時の言葉。

まず私は演じないし、演じたことがない。俳優には、コメディアンとアクターのタイプがあり、コメディアンとは演劇学校で演技を学んで育ってきたものたちを指す。また、強い個性を持った人が、たまたま俳優となった場合をアクターという。本質的な違いは、コメディアンは演技し、アクターは役を生きる。


日本語ではコメディアンという単語が別な意味で定着しているけど、アクター=俳優、コメディアン=役者で、ニュアンスは若干違えど言っている意味は大体同じですね。


映画「丘を越えて」のDVD特典映像の中で三人の主演俳優がお互いについてコメントしていたのだけど、いつもなら冗談を飛ばしたりと余裕のコメントをする西田敏行が、西島秀俊に言及する時だけは堅苦しささえ感じるくらいに真面目に評していたのが意外だった。
前述の週刊文春を読んで、それは西島秀俊を役を生きる俳優ではなく自分と同じ役者として見ているからなのかな、と思ったりした。
俳優(アクター)=役を生きる人、役者(コメディアン)=演技する人という分類で考えるならば、西島秀俊は「役者」に属する人。
一見、自然体の演技が多いように思うけど、「役を生きる」タイプではないから。
自らを役者と定義する西田敏行は、おそらく俳優型の人がすごい演技をしても敬意は払いながらも動じることはなく、おおかたの若い世代の役者型の演技に対しては余裕をもって見ることができているんだろう、と想像する。
自分の演技力には自信があるだろうし、手の内はわかっているわけだから。
そんな中、俳優型ではなく、あくまでも役者型アプローチでありながら、演技しないことを成立させているように見える西島秀俊は、西田敏行にとっては、それまでにあまり出会わなかったタイプなのかなーと思った。
未知の存在に対して思わず真面目になってしまう西田敏行は、余裕でおちゃらけている西田敏行よりも好きかもしれない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年1月18日 (日)

DSで5ヵ国語

「ゼロからはじめる 大人の5ヶ国語入門 英・仏・独・伊・西」を購入。
フランス語のトレーニングを少しやってみた。
文法のレッスンはないので、本当にゼロから始める人には向かないと思うけど、単語力をつけるには使えると思う。
スペルを自分で書くトレーニングはPSPのTalkmanにはない機能なので、なかなか良いです。

やっぱり「フランス語漬け」が欲しいなぁ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月16日 (金)

白夜行

TBSチャンネルで一挙放送していた「白夜行」を視聴。
本放送時に初回のみを見たものの、なんだかんだとその後は見ていなかった。
でも、TBSチャンネルで一挙放送された時に見た「世界の中心で愛をさけぶ」の綾瀬はるかと山田孝之のコンビが非常に良かったので、見てみようかなーと。
セカチューも、いわゆる死病モノには一切興味がないのだけれど、とにかく主演二人がとても良かった。

前置きが長くなったけど、一気に見た「白夜行」は面白かったです。
とはいえ、これを毎週見るのはやはりきついと思うし、その時の気分によっては見ていられないような悲惨な話なんだけど。

主人公・桐原亮司役の山田孝之の演技は名演の域の素晴らしさ。
もともと、この世代の俳優の中では演技が上手いほうだとは認識していたけど、もしかすると一番上手いかもしれないと思った。
知的犯罪を犯す頭脳・暴力的な犯罪を厭わない冷酷さと献身って、結びつきにくい要素だけど、それがちゃんと自然に見える。
雪穂役の綾瀬はるかもコメディで見せるほんわかした顔とは別の顔。
好きなのは天然キャラの綾瀬はるかだけど、ダークな役もはまっている。
罪を重ねていく役なのに、いかにも悪そうには演じていなくて、でも暗さや冷たさが仄見えるところがいい。
賢い役もこなせる天然キャラとしては、篠原涼子以来の逸材だと思う。
(篠原涼子が深夜番組で町田康に向かって放った一言「紙で賞をおとりになったそうですね」は忘れがたい)
山田・綾瀬コンビは切なさと叙情性があって、「泥に浮かぶ白い花」のイメージにぴったり。
「世界の中心で・・・」の若さゆえのきらめきは捨てがたいけど、ドラマとしてはこちらのほうが好き。

脇を固める人たちも皆素晴らしいんですが、とりわけ雪穂の養母役の八千草薫が良かった。
上品で優しそうで、昔から好きな女優さんだけど、「白夜行」の養母の最期の場面には静かな中に凄みさえ感じた。
柔に剛を秘めたキャラクターは昔から好きなのだけど、八千草薫の演技は本当にお見事。
いい年をしてドラマでいちいち泣くのもなんだし・・・と、わりと淡々と見ていたのだけど、「ふたり揃ってそのザマか」という台詞で涙腺スイッチオン。
なんていうか、唐沢礼子の死に臨んでも動じない凄みによって、若い二人のしたたかさに隠れた哀れさが浮き彫りになったように思えた。

一昨年の大河ドラマ「風林火山」で藤村志保が演じた寿桂尼には100%満足しているけど、八千草薫の寿桂尼も見てみたいと思った。


で、「白夜行」の原作も読んでみたのだけど、言われていたとおりドラマとはかなり違う。
雪穂の描写などはかなり違うし、原作では主人公二人の内面は一切描写されないのが、ドラマでは独白で描かれていたりと、原作に漂うノワールな雰囲気はなくなっていて、ドラマに賛否両論あるのも頷ける。
でも、大幅な改変はされていても、脚色にあたっては原作を相当綿密に読んだのだろうと思った。
変えてはあっても、原作のコアな部分は尊重していると思うから。
原作の説明を排した、ノワールな雰囲気も好きだけど、2人の純愛に焦点をあてたドラマはドラマで好きです。
八千草薫の唐沢礼子像はドラマならではだし。


脚色するのに原作を読むなんて当然のことなんだけど、「白夜行」の原作とドラマの関係にひき比べると、「篤姫」の脚本家は原作の「天璋院篤姫」を読んだかさえ疑わしい。。。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月 9日 (金)

坂の上の雲、放送日決定

「坂の上の雲 第一部」が11月末から放送されることで「天地人」が11月終了になるとのこと。
放送の時期や期間が変則的だったことは過去にもあったから、騒ぐことではないですね。
長いから面白いってわけでもないし。

ブログを見ていたら「天地人は篤姫よりも高視聴率なのに打ち切り?」と落胆している意見がちらほらあったのだけど、前述のとおり大河ドラマの放送時期は丸一年と決まったものではなく、一般視聴者が視聴率を気にするようになったのも変だよなーと思う。
自分が視聴している番組の高視聴率を誇る人というのは、勝ち馬に乗ったような気分なんだろうか。
そりゃ、自分が好きな番組を大勢の人が好きなのは単純にうれしいことではあるけれど、そういうのとも異質な感じがするのです。
「坂の上の雲」ドラマ化の企画は、「篤姫」「天地人」よりも前から発表されていたことで、放送を何年かに分けることも既定の話なのですが。

「篤姫」から大河ドラマに興味を持った人にはわかるまいが、従来の大河ドラマファン&司馬遼太郎ファンにとって「坂の上の雲」は待ちに待ったドラマです。
原作ファンの中には原作を愛するあまりにドラマ化を望まない人もいるけど、過去、「徳川慶喜」、「功名が辻」と原作を愚弄したNHKといえども、さすがに「坂の上の雲」をないがしろにはできないはず(と信じたい)。
主役級の配役(本木雅弘、阿部寛、香川照之、菅野美穂)にも納得しているし。
この先、「天地人」の出来如何によってはNHKの最後の良心になるかもしれない。

「天地人」の初回を見忘れたので、内容については保留するとして、ガイドブックで石田三成(小栗旬)の写真を見たのだけど、この髪型はあり得ないでしょ。
カブキ者設定のつもりなのかもしれないけど、他の誰がカブいても石田三成だけは「ない」。
石田三成がかぶくような余裕のある人なら、秀吉子飼いの武将たちともうまく付き合えたかもしれないし、関が原の戦いは起こらなかったか、戦をしたとしても結果は違っていたはず。
「たられば」の話だし、たかが髪型といえばそうなんだけど、外見も含めて人格は形成されるわけなので、キャラクターの破綻に結びつきかねないですよ、これ。
斬新さを求める前に、過去の作品の石田三成のイメージがどういうふうに創られていったかくらいリサーチしてほしいもんである。
奇抜な外見と、能吏ぶりと融通の利かなさをどう結びつけるつもりなんでしょーか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月 7日 (水)

飽きた、

やっと「篤姫」が終わったと思ったら、宮崎あおいの露出が増えてちょっと辟易している。
「功名が辻」の後も仲間由紀恵の露出過多にウンザリしてしまったけど、今回のほうが重症のような気がする。

役名こそ楓だったり桜子だったり篤子だったりするけれど、宮崎あおいの演技って常に「健気で一途でおせっかいな女の子」が泣いたり笑ったり怒ったりしているんですね。
似たようなキャラクターが多い背景には、アテ書きが多いことがあるのかもしれず、監督や脚本家にアテ書きさせてしまうこと自体は大したものだと思う。
でも、その結果、演じる人格がどれも同じに見えるのでは、盛んに持ち上げられているような「演技派女優」とは言いがたい。
もちろん、七変化することが演技のすべてではないし、存在感や個性で演じるというのもアリだけど、23歳の女の子に存在感や個性のみで勝負されてもなぁと思う。

雑誌のインタビューによると、宮崎あおいは「篤姫が町娘みたい」という批評をみていて、「よし、よし」と手ごたえを感じていた、ということなんだけど、これを知ってがっくりきました。
篤姫を町娘のように見せることによって島津本家の養女になって以降との差を明確にしようという意図はなんとなくわかったので、そのこと自体はまあヨシとしましょう。
でも、それで当の女優が手ごたえを感じたりしちゃダメでしょ。
篤姫はドラマのスタート時点でも断じて町娘ではないわけです。
分家とはいえ島津一族の娘なんだから。
幾島の姫君教育は、お姫様をスーパーお姫様に鍛える、いってみれば「スーパーピアノレッスン」のようなものであったはず。
お姫様といっても武家娘の所作が出来ていれば成長を描くのに何ら問題はなく、武家の娘と大名の姫君の演じ分けは昔の女優ならば普通にこなしていたことなのに、「町娘→お姫様にステップアップ」に大幅にレベルを下げざるを得なかったのは一体誰のせいなのかと。
それを恥じ入るどころか「よしよし」と思ったというエピソードから、彼女自身の所作や役作りに対する考え方の浅薄さが透けて見えてしまった。
あの篤姫像に疑問を感じなかったことも腑に落ちる。

#このタイプの女の子って、往々にしてインプット<アウトプットの傾向があると思うんだけど、どうなんだろ。

「純情きらり」の桜子はピアノを弾く動き自体には違和感はなかったけど、音楽家としての将来を期待したり、音楽学校進学を断念したことを惜しいと思わせるような雰囲気が皆無だったし、篤姫も「史書を読むのが好きな聡明な姫」には見えずじまいと、役作りに関しては同世代の女優と比べても、いまいち。
それなのに、プロの評論家までが提灯記事を書いたりと、演技力が過大評価されている現状は見ていて非常に苦々しい。
いえ、同世代の若手女優を並べてみれば上手いほうに属するのだけど、もっと上手い子も、真摯に役に取り組んでいる子もいるのに、と思うのです。


音楽についても同じことを書いたことがあるけど、アイドル兼業の子のほうが「私は女優よ」タイプの子よりもプロ意識が高いというか、役への取り組みがしっかりしているような気がしている。
もちろん、全部がそうってことではなく、そういう傾向を感じる、ということですが。


「篤姫」においては、瑛太の演技も決して感心できたものじゃなかったけれど、ドラマの小松帯刀像には疑問と葛藤を感じていたらしいし、これまでに「オレンジデイズ」、「アンフェア」、「のだめカンタービレ」、「好きだ、」でまったく異なるキャラクターを演じているので、ナヨゴローは事故みたいなものなのだろうと思っています。

---
お姫様役が似合わないといえば若い頃の大竹しのぶもそうだったけど、その大竹しのぶが演じた「和宮様御留」のフキ(水汲みの女の子が何もわからないままに和宮の替え玉にされ、精神に異常を来たす)のような役を演じる宮崎あおいというのもピンと来ないので、お姫様役だけが壁というわけではなさそう。
弁護士、医師、教師etc.の「頭の良さそうな役」を演じている姿も想像できない。
職業シリーズを演じなくちゃいけないわけじゃないけど、俳優を続けていれば特定の職業の役というのはまわってくるものだと思うし、観ている側としては、そのあたりのリアリティは最低限クリアしておいてほしいと思うんである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月 5日 (月)

ジルベスターコンサート

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

2009年の年明けは東急ジルベスターコンサートを観ながら迎えました。
カウントダウンの曲目は「ラプソディ・イン・ブルー」、ピアノは小曽根真。
カウントダウンのタイミングは「??」でしたが素敵な演奏で、小曽根真は、やっぱりモーツァルトよりガーシュウィンのほうが水を得た魚という気がする。

---
古澤巖のヴァイオリン演奏で荒川静香が「ツィゴイネルワイゼン」を滑っていた。
スケーティングは相変わらず優雅。
ただ、衣装がタイトすぎたのがちょっと残念。

ショスタコーヴィチの「ジャズ組曲」より「ワルツ第2番」が素敵な曲で、前衛的な曲だけではなかったのかとまた一つ勉強になりました。
上野水香と高岸直樹のバレエも良かったです。


---
コンサート、バレエ、映画、それからフィギュアスケートの使用曲と、なんによらず「後で聴きたくなるかどうか」が私にとっての良いパフォーマンスの判断基準で、最近では織田信成の「仮面舞踏会」がそれ。
以前のものでは、荒川静香の「トゥーラン・ドット(バネッサ・メイ版)」、安藤美姫「カルメン(シチェドリン版)」、ランビエールの「ロミオとジュリエット」etc.
長洲未来の「コッペリア」も音楽のみでも聴きたくなる演技でした。
織田信成の「仮面舞踏会」は音楽に乗っているところが好き。
「おお、ワルツを踊っている」と思うんですね。
エキシビションの「トスカ」もそうですが、リズムだけでなく「メロディを表現するセンス」が卓越しているなぁと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »