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2009年2月

2009年2月28日 (土)

ドラマ白洲次郎

ドラマ白洲次郎を観ました。
番組PRとメイキングの期待が大きかったので、本編でがっかりしたらどうしようと思ったりもしたけど杞憂で良かった。
美しい映像で、戦前の豪勢なお金持ちの家の生活、英国ケンブリッジの空気を楽しめました。
※ケンブリッジの街並みは「永遠の愛に生きて」にも出てくるけど、C.S.ルイスがケンブリッジで教鞭をとっていたのは、白洲次郎が留学していた時より後なんですね。

白洲次郎役の伊勢谷友介はスーツの着こなし、仕草、所作がはまっていたし、中谷美紀の白洲正子は華族の令嬢らしく美しくてゴージャス。
少年時代の次郎、父(奥田瑛二)と母(原田美枝子)、岸部一徳の近衛文麿etc.みんな良かった。
次回は吉田茂の登場が多くなるだろうし、それも楽しみ。

このドラマを見て、やはりNHKで放送された「ポーツマスの旗」を思い出しました。
・・・と思って検索してみたら、「ポーツマスの旗」の脚本は大野靖子。面白かったわけだ。
こういうドラマこそNHKの真骨頂だと思う。それとドキュメンタリーと。






週刊文春が「白洲次郎ドラマは「虚像」と胸はるNHKプロデューサー」という記事を載せていて、実在の人物の虚像が一人歩きするのを危惧するのはわからないでもないんだけれど、なにを今更という感じでもある。
虚像が広まることによる大衆への影響を憂えるのなら、内容の改変からも視聴率からも「篤姫」のほうがよほど深刻だった。
「フィクションです」と割り切ることが言い訳や開き直りになるのなら、「篤姫」の時にもそう言いなさいよ、と思う。
「篤姫」の時は宮尾登美子の談話は掲載したものの「ドラマだからご自由に」とやんわり流しておいて、白洲次郎のドラマには目くじらたてるのというのはダブルスタンダードな気がします。
それに、明治維新の功労者の一人が実際は会ったこともなかったであろう女性を仕事も家庭もさしおいて「姫さま、姫さま」と気にかけるのはフィクションとしてOKで、マッカーサーを一喝するエピソードがNGというのは、なんだかずいぶん自虐的。

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2009年2月23日 (月)

白洲次郎SP

ドラマ「白洲次郎」のPR番組を見たら、なかなか面白そう。
主演の伊勢谷友介の整っているけど特徴のある容貌は、通常のテレビドラマでは浮きそうだけど、時代背景やクラシカルな衣装と髪型にはぴったり。
「CASSHERN」で愕然とした台詞回しも英語が多いせいか気にならないし、むしろ当時の日本では異質だったであろう白洲次郎の雰囲気にマッチしている。

伊勢谷友介のインタビューを見て、珍しく「口が頭についていかない」タイプの人だなーと思った。
語彙が少ない人、言葉がちゃんと出てこない人って、頭の中にイメージそのものがないことが多いけど、伊勢谷友介の場合、頭の中には白洲次郎のイメージがあって、それはかなり立体的で深いものだということはわかるのだけど、それを言葉で引き出すのがド下手、という印象。

中谷美紀の白洲正子はゴージャスで素敵。
こちらのインタビューはよどみなく、見るからに聡明そう。

テレビドラマの記憶から、長らく吉田茂といえば森繁久弥だったけど、原田芳雄の吉田茂が予想外にイメージどおりでうれしい驚き。
なお、森繁久弥は映画「小説・吉田学校」で吉田茂を演じていますが、私が見たのはテレビドラマ「吉田茂」のほうで、現首相の母上を吉永小百合が演じていました。
吉田茂の秘書代わりも務める才媛で、吉永小百合はまたこういう役をやるとよいのに。


西島秀俊がナレーションを担当した「昔、男ありけり~くたびれたツイードのジャケット」という番組もドラマPRに合わせて放送していたとのことで、見逃して肩を落としている私です。
で、今の時点で伊勢谷友介の白洲次郎には一切不満はないのだけど、西島秀俊の白洲次郎も見てみたいなと思った。
クラシカルな衣装が似合うこと、貴族的なモダンボーイにはまることは「丘を越えて」でわかっているし、「CASSHERN」の上条中佐役の存在感と演技から「従順ならざる日本人」もOK。
津軽弁のこなし具合から、クイーンズ・イングリッシュも訓練すればいけるんじゃないか。

「ロード・オブ・ザ・リングのケイト・ブランシェットのガラドリエルに不満はないけど、できればティルダ・スウィントンで見たかったな」的希望でした。

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2009年2月22日 (日)

上杉戦記と関が原

「疾風怒濤! 上杉戦記」を読み終わり、司馬遼太郎の「関が原」を読み返しているところ。
「関が原」に直江兼続が出てきたことが記憶からすっぽり抜けていた・・・。

「疾風怒濤! 上杉戦記」は、山本周五郎、海音寺潮五郎、永井路子など8人の作家が上杉家の人々を描いた短編をそろえたアンソロジー。
文章の好き嫌いが激しいので、長編小説であるとか、個人の作家の短編集はなかなか手が出ないのだけど、こうして様々な作家の作品を少しずつ読むのは面白い。
上杉謙信の捉えかただけ見ても、人によって違うし、文章にも特色があるし。
この中には「天地人」の原作者・火坂雅志の「羊羹合戦」も収録されています。
火坂雅志はデビュー作が酷かったので、以来偏見を持っていたのだけど、「羊羹合戦」は思いのほかに良かった。
直江兼続の命により関白の花見に出す羊羹を作ることになった侍を描いた物語だけど、羊羹の描写が美味しそう。
口幅ったい言い方になるけれど、作家も成長するんだなと思った。
※ただ、新書の帯になっている「和服で腕組み」写真はやめたほうがいいと思う。
なにかのパロディ?と思ってしまう。

ところで「関が原」を久しぶりに読んでみて、私の石田三成像は、少なからず加藤剛と近藤正臣によって修正されていることがわかりました。
司馬遼太郎の描く三成は、思っていたよりも尖がっていた。
家康と本田正純は記憶どおりだったけど。

大河ドラマの天地人を持ち上げる気はないけれど、「篤姫」のほうがマシという意見には異を唱えたい。
背景や題材が好きじゃなくて見なかった大河ドラマもあったけど、ドラマとして「篤姫」は過去最低の出来です。
そりゃ「天地人」もツッコミどころは満載だけど、「篤姫」と比較するならば、「天地人」が月で「篤姫」はスッポン。
「天地人」が丙なら、丁は間違いなく「篤姫」。
これだけは断言しておきたい、です。

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2009年2月19日 (木)

めがね et かもめ食堂

スカパーの契約を変更して映画チャンネルが増えた。
見逃していた映画を気軽に見ることが出来るのがうれしい。
で、先日はチャンネルNECOで放送していた「めがね」と「かもめ食堂」を観ました。
どちらも小林聡美、もたいまさこが出ています。


「めがね」は、南の島(与論島)の民宿「ハマダ」が舞台。
旅行客のタエコ(小林聡美)、不思議なカキ氷屋のサクラ(もたいまさこ)、民宿の主人(光石研)、近所の学校の教師ハルナ(市川実日子)、タエコを追ってやってきた青年ヨモギ(加瀬亮)、みんなが何故かメガネをかけている。
物語にはほとんど起伏がないけれど、与論島の淡いエメラルド色の海がきれいで、食事とビールが美味しそう。
朝食を、茹でた伊勢海老を、こおり金時を、みんな黙々と、でも美味しそうに食べる。
梅干を食べて酸っぱい顔になる。
食べ物に静かな存在感があって、欠くべからざる脇役になっている。
開放的なキッチンも素敵。
映像の美しさからいえば映画館の大きなスクリーンで観たい気もするけれど、気分としては家でゆったりと見たい映画です。
くつろいだ服装で、ビールでも飲みながら。

ハルナは学校の先生ということで野暮ったいスーツを着ているのだけど、市川実日子は着こなしがきれいで、さすがモデル出身。
かっこよく着ているわけじゃなく普通に着ているんだけど、きれいなんですよね。

続いて「かもめ食堂」。
少し前にも放映されて、その際に録画したきり観ていなかったのだけど、「めがね」を観て意欲がわいたので引き続き鑑賞。
フィンランドはヘルシンキの「かもめ食堂」が舞台です。
登場人物は「かもめ食堂」の店主サチエ、日本から来たミドリとマサコ、日本かぶれのフィンランド人青年、夫に逃げられた主婦、お店のお客さんたち、など。
これも出てくる食べ物がとても美味しそうです。
というか、こちらのほうが「めがね」より前の映画ですが。
「かもめ食堂」のメニューは鮭の塩焼き、トンカツ、おにぎりと、いわゆる高級和食ではない、普通の日本のおかず。
海外旅行先で和食を食べたいと思うことはまずないのだけど、もしも、こういう食堂があったら入りたくなるかも。

サチエたちが立ち働く動作がきびきびしていて、とても気持ちがいいです。
ヘルシンキという場所を選んだことも心にくいし。
日本が舞台だと細腕繁盛記になってしまうし、ヨーロッパの街でもパリやロンドン等の大都会では物語として非現実的になり過ぎる。
時々商売を度外視することはあっても、サチエの食堂経営に対して前向きだから、あまり田舎だと隠退したみたいで違う気がするし・・・で、やっぱりヘルシンキだな、と。
ところどころでムーミンの話がでてくるのも好き。
(ムーミンパパは理想の父親像No.1)


食べ物が出てくる映画は数あっても、ほんとうに美味しそうに見える映画は少ないです。
文章ならば多いけど。
でも、「かもめ食堂」も「めがね」も、特に凝った献立じゃないけど、食べ物がほんとうに美味しそうです。
映画に漂う空気感も好き。
心地よさという点では共通しているけど、「めがね」は南国の春の、ちょっと湿った柔らかい空気がたそがれるのにぴったりだし、「かもめ食堂」の北の国の夏の湿度の低い爽やかさは、少し前向きな3人に合っている。

「かもめ食堂」の原作にちょっと目を通してみた。
原作者の群ようこは、一時期まとめて読んだけど、その後ぱったりと読まなくなった。
観察眼の鋭さとサクサク読めるところが好きだったし、視点にも共感できたのだけど、言葉の選び方の雑さとか、文章がせわしなく感じられるようになってしまったため。
「かもめ食堂」も、サチエをはじめとする登場人物は魅力的で物語には引き込まれながらも、地の文に「ださい」という単語が使われていたことに違和感を覚えたりした。
サチエのキャラクターに合わないし、群ようこもそういう言葉遣いで育った年代じゃないのに、と思うので。
でも、映画なら文章は気にならないし、原作の良さだけを引き出せた感じ。
もともと映画のための書き下ろしだそうだけど、映画になってよかった。

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2009年2月18日 (水)

ハタ迷惑な喫煙しない愛煙家

煙草は吸わないし、のどは弱いし、基本的に嫌煙のスタンスなのですが、止むを得ず座った喫煙席や分煙していないことを承知で入ったお店で嫌煙を主張するほど野暮ではないつもりです。
で、これは若い女性に多いのだけど、飲食店に入って煙草に火を点けても、ほとんど吸わない人がいる。
火の点いた煙草を手に持ったまま、時々灰皿に灰を落としながら、ずーーーーっとおしゃべり。
下手すると、火を点ける時以外、煙草を口に持っていってさえいないかもしれない。
しかも、煙草を持った手を自分の連れからは遠ざけようと、こちらに近づけてくるケースも少なくなく、これじゃ他人に受動喫煙させるために煙草に火を点けるようなもの。

喫煙を許されている場所にいるのだから煙草を吸うなとはいわない。
でも、周囲に煙を撒き散らすだけの行為にまでは寛容になれません。
火を点けたらとっとと吸ってね。

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ジャッジのDVD発売!

ジャッジジャッジⅡのDVD-BOXが発売されるとのこと。
発売日は5月20日。
HDDに録画してあるものの、NHK総合の電波事情がよくなくて画質がいまいち。
しかも放送中に地震速報が入ったりしたので、DVD発売を首を長くして待っていました。
自分の欲しいという気持ちとは別に、このドラマがDVD化されなかったら非常に残念だと思っていたので、そういう意味でもうれしいニュース。

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2009年2月16日 (月)

村上春樹とエルサレム賞授賞式

エルサレム賞受賞及びNGOが辞退を求める公開書簡をWEBに掲載したというニュースを見て、政治と文学は別物だから辞退を求めるのは筋違いだけど安全を考えて授賞式は欠席するのかな、と勝手に思っていた。
予想を裏切られました、良い意味で。


初期の三部作や「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を無心に読んでいた頃は、思いも寄らなかった状況です。
「ノルウェーの森」がベストセラーになった時も不思議な気がしたけど、「授賞式に出席して自分の意見を述べる村上春樹」をテレビで目にしていることが本当に不思議な感覚。
反骨精神は昔からあったけれど、もっとずっと個人的なものだったし、著作が広く読まれるようになれば影響力が大きくなるけれど、サリンジャーのような身の処し方もあるわけだし。
「アンダーグラウンド」を書いたあたりで社会と関わる方向を選んだことはわかったけど、ここまではっきりと意思表示をすることを選ぶとは思いませんでした。
今回とった行動も、スピーチの内容も、どちらも素直に称えたい。

私の中で村上春樹及び小説の主人公たちは永遠に20代半ばから30代半ばを彷徨っているイメージなので、「村上春樹さん(60)という表記にはドキっとする。
いえ、年齢は知っているんですけど。

以下以下、現地紙よりスピーチの抄録

Always on the side of the egg

By Haruki Murakami

Tags: Israel News, Haruki Murakami

I have come to Jerusalem today as a novelist, which is to say as a professional spinner of lies.

Of course, novelists are not the only ones who tell lies. Politicians do it, too, as we all know. Diplomats and military men tell their own kinds of lies on occasion, as do used car salesmen, butchers and builders. The lies of novelists differ from others, however, in that no one criticizes the novelist as immoral for telling them. Indeed, the bigger and better his lies and the more ingeniously he creates them, the more he is likely to be praised by the public and the critics. Why should that be?

My answer would be this: Namely, that by telling skillful lies - which is to say, by making up fictions that appear to be true - the novelist can bring a truth out to a new location and shine a new light on it. In most cases, it is virtually impossible to grasp a truth in its original form and depict it accurately. This is why we try to grab its tail by luring the truth from its hiding place, transferring it to a fictional location, and replacing it with a fictional form. In order to accomplish this, however, we first have to clarify where the truth lies within us. This is an important qualification for making up good lies.
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Today, however, I have no intention of lying. I will try to be as honest as I can. There are a few days in the year when I do not engage in telling lies, and today happens to be one of them.

So let me tell you the truth. A fair number of people advised me not to come here to accept the Jerusalem Prize. Some even warned me they would instigate a boycott of my books if I came.

The reason for this, of course, was the fierce battle that was raging in Gaza. The UN reported that more than a thousand people had lost their lives in the blockaded Gaza City, many of them unarmed citizens - children and old people.

Any number of times after receiving notice of the award, I asked myself whether traveling to Israel at a time like this and accepting a literary prize was the proper thing to do, whether this would create the impression that I supported one side in the conflict, that I endorsed the policies of a nation that chose to unleash its overwhelming military power. This is an impression, of course, that I would not wish to give. I do not approve of any war, and I do not support any nation. Neither, of course, do I wish to see my books subjected to a boycott.

Finally, however, after careful consideration, I made up my mind to come here. One reason for my decision was that all too many people advised me not to do it. Perhaps, like many other novelists, I tend to do the exact opposite of what I am told. If people are telling me - and especially if they are warning me - "don't go there," "don't do that," I tend to want to "go there" and "do that." It's in my nature, you might say, as a novelist. Novelists are a special breed. They cannot genuinely trust anything they have not seen with their own eyes or touched with their own hands.

And that is why I am here. I chose to come here rather than stay away. I chose to see for myself rather than not to see. I chose to speak to you rather than to say nothing.

This is not to say that I am here to deliver a political message. To make judgments about right and wrong is one of the novelist's most important duties, of course.

It is left to each writer, however, to decide upon the form in which he or she will convey those judgments to others. I myself prefer to transform them into stories - stories that tend toward the surreal. Which is why I do not intend to stand before you today delivering a direct political message.

Please do, however, allow me to deliver one very personal message. It is something that I always keep in mind while I am writing fiction. I have never gone so far as to write it on a piece of paper and paste it to the wall: Rather, it is carved into the wall of my mind, and it goes something like this:

"Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg."

Yes, no matter how right the wall may be and how wrong the egg, I will stand with the egg. Someone else will have to decide what is right and what is wrong; perhaps time or history will decide. If there were a novelist who, for whatever reason, wrote works standing with the wall, of what value would such works be?

What is the meaning of this metaphor? In some cases, it is all too simple and clear. Bombers and tanks and rockets and white phosphorus shells are that high, solid wall. The eggs are the unarmed civilians who are crushed and burned and shot by them. This is one meaning of the metaphor.

This is not all, though. It carries a deeper meaning. Think of it this way. Each of us is, more or less, an egg. Each of us is a unique, irreplaceable soul enclosed in a fragile shell. This is true of me, and it is true of each of you. And each of us, to a greater or lesser degree, is confronting a high, solid wall. The wall has a name: It is The System. The System is supposed to protect us, but sometimes it takes on a life of its own, and then it begins to kill us and cause us to kill others - coldly, efficiently, systematically.

I have only one reason to write novels, and that is to bring the dignity of the individual soul to the surface and shine a light upon it. The purpose of a story is to sound an alarm, to keep a light trained on The System in order to prevent it from tangling our souls in its web and demeaning them. I fully believe it is the novelist's job to keep trying to clarify the uniqueness of each individual soul by writing stories - stories of life and death, stories of love, stories that make people cry and quake with fear and shake with laughter. This is why we go on, day after day, concocting fictions with utter seriousness.

My father died last year at the age of 90. He was a retired teacher and a part-time Buddhist priest. When he was in graduate school, he was drafted into the army and sent to fight in China. As a child born after the war, I used to see him every morning before breakfast offering up long, deeply-felt prayers at the Buddhist altar in our house. One time I asked him why he did this, and he told me he was praying for the people who had died in the war.

He was praying for all the people who died, he said, both ally and enemy alike. Staring at his back as he knelt at the altar, I seemed to feel the shadow of death hovering around him.

My father died, and with him he took his memories, memories that I can never know. But the presence of death that lurked about him remains in my own memory. It is one of the few things I carry on from him, and one of the most important.

I have only one thing I hope to convey to you today. We are all human beings, individuals transcending nationality and race and religion, fragile eggs faced with a solid wall called The System. To all appearances, we have no hope of winning. The wall is too high, too strong - and too cold. If we have any hope of victory at all, it will have to come from our believing in the utter uniqueness and irreplaceability of our own and others' souls and from the warmth we gain by joining souls together.

Take a moment to think about this. Each of us possesses a tangible, living soul. The System has no such thing. We must not allow The System to exploit us. We must not allow The System to take on a life of its own. The System did not make us: We made The System.

That is all I have to say to you.

I am grateful to have been awarded the Jerusalem Prize. I am grateful that my books are being read by people in many parts of the world. And I am glad to have had the opportunity to speak to you here today.


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2009年2月11日 (水)

空の羊~向田邦子新春シリーズ

TBSチャンネルで放送された向田邦子新春シリーズより、「空の羊」と「あ・うん」を見ました。
このTBS版の向田邦子シリーズは、向田邦子というよりは久世光彦色が強く感じられたので、リアルタイムでは見たり見なかったり。
「空の羊」は見なかったうちの一本で、次女の恋人役で西島秀俊が出演していたと知ってから放送を心待ちにしていました。
久世光彦の演出も今となってはもう見られないし、西島秀俊が出ていて、向田邦子が原作、久世光彦が演出、金子成人の脚本とくれば、これは見ずばなるまい。

「空の羊」は昭和13年の東京、女ばかりの桂木家を舞台にした物語。
三姉妹を演じているのが田中裕子、戸田菜穂、田畑智子、母親が加藤治子、桂木家に出入りする落語家を小林薫が演じています。
西島秀俊が演じたのは桂木家の次女五重の恋人。
作家の卵で「純情きらり」の杉冬吾と「さよならみどりちゃん」のユタカを足して2で割って零下まで冷やしたような男。
登場シーンはそんなに多くないのだけど、和服姿も表情も昭和13年という時代背景に馴染んでいて、亀和田武が「昭和の顔」と評したこともむべなるかな、と思う。
そういえば「花へんろ」の戦後編にも出ていたっていうし、向田邦子、久世光彦、早坂暁の関わった作品に出演しているのがなんとなくうれしい。

小林薫とともに、このシリーズのレギュラーである長女役の田中裕子は無論のこと、戸田菜穂と田畑智子も昭和10年代の雰囲気に馴染んでいて良かった。
こういう戦前の中流階級の家庭を舞台にしたドラマって、若いうちは演技力以上に地の部分が試されるというか、育ちが見えてしまうものだけど、戸田菜穂と田畑智子からは育ちの良さがそこはかとなく感じられた。
時代劇であるとか、同じ昭和を舞台にした作品でも構溝正史とか江戸川乱歩等の非日常的な物語は思いきって役作りできるけど、向田邦子のように日常を描いたドラマは、微妙な違いであるだけ雰囲気を出すのが難しくなってきているんじゃないかな。


それから「あ・うん」
小林薫、田中裕子、樋口可南子と好きな俳優が揃っているのだけど、NHKのオリジナル版(と言わせてもらおう)のキャストへの思い入れが強くて、敢えて見なかった作品。
樋口可南子が君子役には綺麗過ぎるように感じたものの、出演者はみな好演。
さと子役の池脇千鶴も良かったし、さと子のお見合い相手を演じた窪塚洋介も戦前の雰囲気に違和感がなく、育ちの良い帝大生らしさが出ていた。
(窪塚洋介の髪型は似合っているとは言いがたいのだけど、自分の容姿よりも役柄のリアリティを優先した心意気を買う。)
見るまでは小林薫はてっきり夜学での謹厳実直な水田仙吉役なのかと思っていたのだけど、門倉役だったのですね。
「粋な二枚目」の小林薫を見たのは、ものすごく久しぶりな気がする。
これはこれで良いなと思うと同時にNHK版の杉浦直樹の素晴らしさもまた再確認してしまった。

NHK版のエンディングテーマ曲は「アルビノーニのアダージョ」だったけど、こちらはエンディングに「ディドの嘆き」。
どっちも好きです。


ところで「空の羊」出演時は西島秀俊は26歳くらいだけど、それについてドラマとは別に思うところがありました。
和服姿の26歳の西島秀俊は、今の20代後半の俳優とずいぶん違って、顔つきや表情が大人だなと思った。
現代人は昔よりも若く見えるようになっているというのは以前から言われていることで、「サザエさん24歳マスオさん28歳」をちょくちょく冗談のネタにしてきたけれど、たった10年ほどでこんなに変化があったのかと、そのことにちょっと驚いた。
かといって12年前の西島秀俊が今の20代よりも物理的に老けていたわけではなく、お肌なんかはつるつるで顔そのものは若い。
そして、ドラマで演じているのは人間として未熟な青年なのだけど、でも前提として「大人」なんです。
「未熟な大人」だったり「幼稚な大人」だったりするけれど、とにかく大人の階段は登りきっている。
でも、現在の20代後半の俳優の多くはどこか少年っぽい。
年齢的には立派に青年なのだけど、青年というよりは「老成した少年」に見える。
で、それが良いことか悪いことかというと、ちょっと否定的だったりする。
若く見えるのは基本的には良いことだし、「マスオさん28歳」は老けすぎなのだけど、あまりいつまでも少年っぽさを引きずるのは、役の幅という点ではマイナスになるんじゃないかと思うのです。
ファンが若々しさとか可愛さを求めていたりすると、大人の男への脱皮もなかなか簡単じゃないだろうし、男っぽさを狙いすぎてあまりにワイルドになりすぎるのもうれしくないけど。

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2009年2月 4日 (水)

無知な人による賞賛は迷惑かもしれない、という例

ブログを検索していて見つけたこの文章。
BARFOUT 一月号の記事らしいのだけど、内容のあまりのひどさに唖然としてしまった。

今回の【どっちが勝ち組でショー】は、松山ケンイチ VS 成宮寛貴。
共に映画、ドラマ、CMと大活躍の20代人気俳優。実は今回、結論からいうと、勝算は成宮寛貴にありそうなのだ(もちろん編集部の独断と偏見のもとである)。
成宮にあって松山に無い魅力とは?

ある映画ライターがこんな事を言っていた。
「松山クンはもともと変わった性格の子みたいで、なかなか人の輪に溶け込めない。俳優という才能に目覚めてからは、役になりきる努力を人一倍に行っていて、若いのにオリジナルの演技を入れたりする。
そんな独創的な部分が評価されているのではないか。」

現在日本テレビの『銭ゲバ』に主演中の松山ケンイチ。
青森県むつ市出身の23歳。そんなに痩せて見えないが、身長180cm、体重60kgと細い。天然パーマで、顔に「ニキビ後」が残っていて、ごく普通の青年に見えるが、とにかくホリプロと日本が誇るファッション・デパート「PARCO」が、1万人以上の男の子の中から選び出したのだから「モデル要素」もあるのだろう。

東北弁や、青森での暮らしも、松山を通すとオシャレに見える。
(ちなみに『銭ゲバ』の~ズラは、静岡・山梨でよく使われる方言。)キラキラ光る目よりも、への字口に特徴があり、それが個性的な演技スタイルを持つ先輩俳優、西島秀俊の「売れてない」頃を思わせる。
松山は立て続けにヒットを飛ばし多忙なせいか恋愛スキャンダルも無く、「男の色気」はいまのところ感じられない。

かわって、『ララピポ』『ドロップ』『ハルフウェイ』とカタカナ・タイトルの映画がこの春3本も立て続けに公開される、正真正銘の美男子の成宮寛貴(なりみや ひろき)。「ナリ」と良く呼ばれるので、名前がヒロキである事を忘れがちだが、本名は平宮博重(なりみや ひろしげ)。めずらしい苗字に聞こえるが、離婚した父と他界した母は沖縄県の出身。ハッキリした南国系の顔立ちは、北国出身の松山ケンイチと対照的だ。しかし家庭の事情で新宿生まれの成宮は、中学時代は不登校。10代の頃は夜の街にも出入りしていたという。現在も「憂いを帯びた目」で多くの男女を虜にしている“ナリ”にとって新宿はバックグラウンドであったに違いない。

日本では、評価が低いジャンルだが「売春、同性愛、ドラッグ、近親相姦といったヘビーな青春」を“切なく描く”アメリカ映画に良質な作品が多い。
その代表的な監督が、ガス・ヴァン・サント監督であり、故リヴァー・フェニックスが主演した『マイ・プライベート・アイダホ』は“初期”の代表作でもある。成宮もつ独特な雰囲気がこの映画に被り、またこの世界に耐えられる深い印象がある。一見今風の“ナリ”の乾いた瞳には何故か「愛に飢えた感」が漂う。

松山はジョニー・ディップを目標としていると語っているが、「チャーリーとチョコレート工場」のように作品を量産している最近のジョニーは、俳優としての魅力に欠ける。商業ペースに乗り、特殊メイクで“化けるだけ”の俳優になりたいなら構わないが、今後制作費が“押さえ気味”の映像界では生き残れないであろう。

コスプレ主流の松山より、地味な役でも光りそうな成宮の方が重宝がられ、海外デビューも夢ではないか。(Tech Insight)(編集部:宇佐木野ミミ)

書き手がリヴァー・フェニックスと成宮君の顔が好きなことはわかったけど、それ以外は何が言いたいのか言語明瞭意味不明。
この記事について松山ケンイチのファンがずいぶんと怒っているのを見たけど、松山ケンイチだけでなくジョニー・デップ、西島秀俊、そして褒めているはずの成宮君にも失礼な内容である。
だいたい「松山ケンイチ VS 成宮寛貴」と銘打って記事にするなら、書くことは他にあるだろうに。
「コスプレ主流の松山」というけど、特殊メイクこそないものの成宮君も役作りは凝るほうで、演技へのアプローチはわりと共通点があると思うんですけどね、この二人は。
でも、演技については具体的に触れていなくて、それどころか過去の出演作についての言及もない。
容姿のことだけ書きたいのならそれでもいいけど、その場合、ジョニー・デップの悪口は要らないし、西島秀俊の名前を出す必要もないでしょ。

好きな俳優が褒められた時って、どんな褒め方であれ、たいていは悪い気はしないものだけど、他の部分がここまで見当違いだと、成宮君を褒められてもちっとも嬉しくないな。
知らないで貶すのも腹が立つけど、知らないで褒めるのもありがたみゼロ・・・というよりも迷惑でさえある。

それにしてもジョニー・デップを「特殊メイクで化けるだけ」とは恐れ入りました。
だいたい誰かを目標にする場合、直近の活動だけを目標にするわけじゃなく、過去も含めてのことでしょう。
そのくせ「最近の」というわりに、最新公開作だった「スウィーニー・トッド」でなく「チャーリーとチョコレート工場」を挙げるあたりも不可解である。
(量産のイメージを工場になぞらえたってことはわかるけど、そもそも最近のジョニー・デップは"量産"してないし。)
それから、「売れる」の定義にもよるけれど、西島秀俊は「売れていなかった」時期のほとんどない人ですけどね。
テレビドラマしか見ていなければ、確かに「最近、顔を見ないね」という時期はあったけど、映画にはコンスタントに出ていたわけで、エンターテインメント情報誌に記事を書いているライターがその認識ではマズイでしょ。
いつ頃を指して「売れてない頃の」と書いているのかイメージがまったく伝わってこない。
作品名を挙げるなり、何年頃のと書けば普通に伝わるものを、なんでまわりくどくかつ失礼な書き方をしたのか理解に苦しむ。

公共のメディアでこの手のプロ意識に欠ける文章を見ると、それだけでも腹立たしいものだけど、西島秀俊、成宮寛貴、ジョニー・デップの名前が出てきたもので、いっそうムカッときてしまった。

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2009年2月 3日 (火)

スワンの恋

洋画シネフィル・イマジカで放映された「スワンの恋」を録画。
衣装・調度、19世紀社交界の雰囲気が素晴らしいのですが、大好きな俳優ジェレミー・アイアンズを見初め、アラン・ドロンの演技力を見直した映画でもあります。
この映画でシャルリュス男爵を演じたアラン・ドロンを見たことが、「山猫」のタンクレディを見直すことにつながったと思う。
オデットを演じたオルネッラ・ムーティはちっとも美人だと思わなくて、それこそ「好みでもない女!」なんだけど、それでいてスワンが耽溺したことに納得できてしまう不思議な魅力がありました。

この映画を観て、かなり経ってから原作を読んだのだけど、ゲルマント公爵夫人の赤い靴のエピソード(夜会に出かける際、夫人が赤いドレスに黒い靴を履いていることに気づいた公爵が時間がないにもかかわらず召使に赤い靴を持ってこさせる)をさらりと入れたあたり、原作への愛があったのだなと思った。
このエピソードとか「細雪」の丸帯が鳴る場面などは、ささやかだけど原作の雰囲気を馥郁と伝える核みたいな描写だと思う。

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2009年2月 2日 (月)

休暇がサンタ・バーバラで好評

『休暇』サンタバーバラで好評、世界へのステップに
「休暇」が好評というのはとても喜ばしい。
以前、ルーアンの街角で「下妻物語」のポスターを見かけたことがあったけど、外国の街角で「休暇」のポスターを見ることがあったら、さぞ嬉しいことでしょう。
シリアスなテーマを扱った映画なので「下妻物語」のように指差して爆笑はしないだろうけど。


ところで、本題とは別に、記事の中で気になったのがこの部分。

サンタバーバラで上映された日本映画で、観客の反応が対照的だったのが『20世紀少年』。多くが「途中でストーリーを見失った」と不満をもらした。登場人物が多過ぎて(もちろんそのすべてが日本人で見分けもつきにくい)関係性がよくわからない、『休暇』以上に時系列が大きく前後することなどが主な理由としてあげられた。また、セリフの少ない『休暇』に対し、字幕が多い点もハンデとなった。映画好きの街だけに、日本の“大作”に観客はほぼ満員となったが、思いがけず明暗が分かれた結果となった。


「20世紀少年」が外国人に理解しやすい話とは思わないけど、不評の理由に「時系列が前後する」というのがあるのはどうなんでしょ。
アメリカの教育は大丈夫なのか。
まあ、日本でも若い世代には漫画のコマを追えない子がいるらしいから、よその国の心配をしている場合じゃないかもしれないけど。

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