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2009年7月

2009年7月28日 (火)

ラクリモサ

アイスショーの評判を聞いて以来、ずっと見たいと思っていた安藤美姫のモーツァルトのレクイエムを、ようやくYouTubeで見ることができた。
今週末にはテレビ放送もありそうなので楽しみにしている。
去年の「ボレロ」も良かったけれど、この「レクイエム」はさらに進化したという印象。
ステップ、スパイラル、スピンと一つ一つの要素が美しくて、地道に技を磨いてきたことが実を結びつつある、と思った。
いつものことながら衣装も素敵。
前から曲の感情や表情を表現することには秀でていて、内なる表現力を感じさせる選手だったけど、スケートできちんと形にできるようになった。
本当に成長したんだなーと思う。
アップダウンのある選手だけど、どれもこれも「運命が用意してくれた大切なレッスン」で、それを糧にするかしないかは選手自身の気構えにかかっていたことだけれど、ちゃんと糧にした、と。

使用曲の「ラクリモサ」は、映画「僕のピアノコンチェルト」を見て以来、ピアノ版もかなり好き。
あくまでも原曲があってのことだけど、ピアノで聴くと和音や旋律がくっきり聴こえて、新鮮なのです。
「僕の・・・」はピアノで弾いているフレーズが短いので、完全版はないものかと思って検索してみたところ、リストの「モーツァルト, ラッセンらによる声楽曲のピアノ編曲集」 と加羽沢美濃の「クラシックピアノファンタジー」がヒット。

加羽沢美濃版は、途中からショパンみたいになっていて「これ、モーツァルト?」と思うけれど、これはこれで好き。
Jクラシックには、「選曲はいいけどアレンジが残念」と感じることがあるけれど、そういう残念さはなかった。

「これを探していたのよ!」と思ったのはリスト編曲版のほう。
原曲の荘厳な響きを残しつつ、ピアノの透明感を生かした編曲。
それにしてもリストがピアノに編曲していない名曲はあるのだろうかって思う。

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2009年7月23日 (木)

村上春樹と司馬遼太郎

現在「ドラゴンクエストⅨ」プレー中につき、「1Q84」は未読(というか、まだ入手していない)ですが、「内田樹の研究室」の最新エントリーで村上春樹と司馬遼太郎について語っていて、それが非常にツボであった。

“村上春樹は司馬遼太郎の跡を継ぐ「国民作家」なのであるが・・・”というくだり、どちらも好きな(というよりは大・大好きな)作家だけれど、並べたり、結びつけたりして考えたことがなかったし、村上春樹が誰かや何かを継承しているとしたら夏目漱石だと、漠然と思っていたので、ここで司馬遼太郎の名前が出てきたのは意外であった。
こういう発想と視点は新鮮だわ。

それは「司馬遼太郎を読むおじさん」たちは村上春樹を読まず、「村上春樹を読むおねいさんたち」は司馬遼太郎を読まないという興味深い非対称からも推察されるのである。


言われてみると、周囲には「司馬遼太郎と村上春樹」を両方読んでいるのは私を含めて2人しかいないことに思い当たる。
ただ、「司馬遼太郎を読むおじさん」が圧倒的に多いものの、「司馬遼太郎を読むおねいさん」もいることはいます。
彼女は村上春樹を読みませんが。

なお、司馬遼太郎の外国語訳が少ないのは、司馬遼太郎を読みたいと思う外国人は日本語で読む、というのもあると思う。

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ハヤシマリコ

週刊文春7月30日号で林真理子がコラムで珍しく村上春樹について書いていたけど、またしてもというか、後味があまりよくない。
かいつまめば、「1Q84」を読んだこと、過去に村上春樹と邂逅した思い出話なのだけど、思い出話のほうはいつもの自慢話だからいいとして、「1Q84」が爆発的に売れていることについて「さすがノーベル賞候補のブランド力」と書くあたり、そこはかとなく失礼。
ブランド力云々は当っていなくもないけれど、いくらステージが違うといっても同業者がそれを書くかね。
いっそストレートにやっかむほうが清清しい。

追記:
メガヒットが、「売れているらしい」という情報につられて買う人によって増幅する、ということはよくあることだし、一般読者が「『1Q84』って買っても読んでない人も多いよねー」と世間話をするのは普通にありそうなこと。
ただ、同じことを「同業者」が雑誌のコラムで書くとなるとちょっと印象は違ってくる。
同業者が「あの本は売れているけど読んでいる人は少ないよ」というのは、冷静な分析というよりは「妬み」と思われかねないこと(というか、妬みとしか思えないけど)で、だから他の作家はそういうことを書かないのだと思うのだけど、林真理子は書くんですね。
で、これは「歯に衣着せない」とか「率直」ということではなく、節度とか羞恥心の鈍さ、だと思うんである。
羞恥心がないとは思わないけど(だからオブラートにくるむ)、それ以上に言いたい・書きたい気持ちが優先してしまうのかなと。


昔、中島らもが「平積みの村上春樹と自分の本を並べ替えようかと思った」と書いていたことがあったけど、こういうほうがよほど笑える。


林真理子に才能がないとは思わないし、時には観察眼や分析の鋭さを感じるし、題材を面白そうだと思うこともある。
他人や事象を鋭く観察するというのは、ある程度の意地の悪さをともなうことだから、作家・小説家が人格者であるべきとも思っていない。
ただ、性格の悪さにも「一線」はあって、文春のコラム以外で林真理子の文章を読む気にならないのは、作家という職業に許容される性格の悪さとは違う類の卑しさを感じるため。

マイケル・ジャクソンを話題にした時も、同じように「ちょっとイヤな感じ」がありました。
とりたててマイケル・ジャクソンのファンではなくても、全盛期の歌とダンスを見て「すげー」と目を見張った人は多いし、どれほどスキャンダルが話題にのぼろうが、マイケル・ジャクソンの核の部分はスキャンダルではなくパフォーマンス、というのは暗黙の了解みたいなものだと思う。
たとえマイケル・ジャクソンそのものには関心がなくとも、他のことに夢中になったり感動した経験があれば、マイケル・ジャクソンの死を悲しむ人たちの気持ちはわかるし、安易に話題にしたりはしない。
でも、林真理子は「よくわからないけど大スターだし、とりあえず一度見ておきたかった」という感じで、そういうところがデリカシーがないんだよなーと思う。
かといって、ミーハーの無邪気さともちょっと違う。


時間もエネルギーも限られているから、自分がほんとに好きなことか必要に迫られたことでなければ首をつっこんだりはしないし、できない。たいていの場合は。
でも、「さほどに好きじゃなくてもエネルギーだけは注げる人」というのもいて、林真理子もそのタイプなんだろうと思う。
で、そういう人は、往々にして心から好きだったり熱中するものを持たない人で、自分の目を通してナニカを語るのではなく、ナニカをネタに自分を語る、究極の「自分大好き」。
「自分大好き」自体は否定しないけど、その「ナニカ」を自分語りの道具に使われることは、真剣に好きな人からすると、神聖な場所を土足で踏み荒らされるようで不愉快なものなんである。
多分、好きじゃないと無意識にリスペクトを欠いてしまうんだと思う。

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さらに追記:
林真理子の批判(というか、まあ悪口ですね)を何度か書いているけれど、なぜ気に触るのかを自分なりに分析してみると、「嫉みと妬み」を正当化したからなのだと思う。
嫉妬心は誰しもあるものだし、それを無理矢理押さえつけたり、「ないこと」にするのは不自然で、存在を認めて付き合っていかなくてはならない感情。
でも、だからといって正当化していいかといえば、それは違うと思うのです。

ウエストがゴムになっているスカートやパンツはとても楽だけど、堂々と「着ています」とは言いにくい。
楽な衣服を身につけることも身体のためには時として必要だけれど、そういう「楽する自分」を表に出さないようにする、恥らう感覚をどこかに持ち続けたいもの。
嫉妬の感情も同じく、たまには開放しないとやってられないこともあるけれど、野放しにしたり、正当化していいものではない。
嫉妬心のありようを描く作家なら数多くいるけれど、正当化した作家となると、林真理子以外には寡聞にして知りません。
この「精神的なゴムのスカート」を正当化し、一般化した罪は重い、と思うんである。
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ごく自然に、だが自然に愛せるといふことは、
そんなにたびたびあることでなく、
そしてこのことを知ることが、さう誰にでも許されてはゐないのだ。
(中原中也)


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2009年7月20日 (月)

武将役は外見が9割

「天地人」の松田龍平と小栗旬を見て、時代劇における所作の大切さをしみじみ感じている。

小栗旬の石田三成は、奇妙奇天烈な髪型というツッコミどころはあるけれど、とにかく所作が美しい。
立ち上がるだけでも「スッ」としていて、ほれぼれするくらい。
さすが舞台で鍛えられただけのことはある。

一方、伊達政宗を演じる松田龍平。
好みでいえば渡辺謙の政宗よりも好きになれそうな要素はあるのです。
父親似の面差し、独特の雰囲気とアクは同世代の俳優にはない天性の魅力だし、表情の演技はかなり好き。
でも、立ち姿・歩き方が全然ダメで、とても武将には見えない。
所作が下手という以前に、その身のこなしからは所作の稽古をした気配が感じられず。
「風神の門」で、大野修理のダメさを表現するために、伊丹十三がわざと姿勢を傾けて廊下を歩く場面があったけど、それをでやっている感じ。
この所作のダメさには、得意な役ばかり演じてきたことの弊害を感じてしまう。
伊達政宗は型破りな面はあるけれど、詩作などもする「教養のある武将」だったし、伊達家は代々続いている家。当然、所作などはキリッとしているはずで、そういうところは「形」で見せてくれないと。
衣装の着こなしと所作も役作りのうち。

で、政宗の所作については、所作指導や演出家も一体何をしていたの?と思う。
所作の稽古等は、基本的には俳優本人の責任に帰することだと思うけれど、あの立居振る舞いにOK出した人の責任も大きいだろう。
過去の大河でも、子役や少年時代を演じている子たちは皆、違和感なく所作が出来ているのだから、きちんと指導すれば出来るはずのこと。
着物が似合わない体型なのは10歩くらい譲って仕方がないとしても、姿勢を正せばもう少し見られるようにできるはずだし、体型をカバーできる衣装を選ぶという方法もあるだろうに。
袖なし羽織を着るとか。
低レベルで妥協はよしましょうよ。

#成宮君が「利家とまつ」で前田利政を演じた時、畳の歩き方を指導されたという話だけれど、今回の政宗にはそういう指導はなかったのであろうか?


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「天地人」の脚本批判を掲示板以外のメディアでも散見するようになって、それは良いことなのだけど、「『篤姫』は脚本がしっかりしていたが」などというトンデモな文言をさりげなく紛れこませるのはやめてほしい。
「天地人」のダメさは脱力系だけど、「篤姫」はムカツキ系。

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2009年7月13日 (月)

草燃える~源氏の悲劇

時代劇専門チャンネルで放送されていた大河ドラマアーカイブス。
「草燃える」の「船霊」「実朝暗殺」の回を見ました。
北条と三浦の暗闘、源氏の悲劇を描いた回。
テープが残っていて本当に良かった。

まず、「船霊」の回。
出家して京で修行していた二代将軍頼家の遺児・公暁が鎌倉に戻ってくる。
その頃、義時と政子は、後鳥羽上皇の皇子を養子にして子どものいない実朝の継嗣に迎えようと計画していて、そのことが大きな波紋を呼ぶ。
養子の話を耳にした公暁は、自らの境遇への不満を募らせ、ついには実朝暗殺を決意する。
実朝も自分の立場に不安を感じて心穏やかではない。

そんな時、海岸に捨て置かれていた座礁船(渡宋を目論みた実朝が建造させた)に「幽霊が出る」との噂が立ち、周囲の反対を押し切り、噂を確かめに出かけた実朝は、船の中で人の話し声(実は公暁と三浦義村の息子が密会している)を耳にする。
御所に戻った実朝は、唯一心を許せる存在となった御台所に心情を吐露する。
「幽霊は怖くない。怖いのは人間」、「京から皇子を迎えれば、自分は北条にとって用済みになるかもしれない」と。

実朝役の篠田三郎は「花神」の吉田松陰の激しさからは一転、儚げな実朝を好演していて、御台所役の多岐川裕美はお雛様のよう。

そして「実朝暗殺」の回。
冒頭、銀杏の若葉が映し出されるのが心憎い演出。
皇子を養子に迎える話は思うように進まず、一方で朝廷から実朝へ、矢継ぎ早に官位が贈られる。
実朝は位打ちではと忠告されるも聞き入れずに任官し、「官位の上がった自分を北条は粗略にできないだろうから」と御台所に真意を打ち明ける・・・。

暗殺される前夜、実朝は御所の周囲を歩く人影を見るのだけれど、それは死んでいった御家人たちの亡霊。
将軍の座にありながらも、兄・頼家と同じように北条に殺されるのではないかと怯え、「今は御家人たちの亡霊しか自分を守るものはいなくなった」と絶望する実朝が切ない。
そして鶴岡八幡宮拝賀の日。
命を狙われていることを泰時に知らされながら、すべてを諦めたような面持ちで式典に臨む実朝の前に公暁が立ちはだかる・・・。

日々不安に苛まれながらも、公暁のことは自分と同じ源氏の血を引き、尼御台や御家人たちに運命を操られる被害者と見なしていて、その彼によって命を奪われるとは、想像だにしなかったであろう実朝が哀れ。


この二話は、実朝の恐怖と絶望が主に御台所の目を通して描かれているのだけど、原作の御台所は「能動性を欠いた人形のような妻」として描かれ、実朝との心の交流もないままなので、これは原作とは違う部分。
実朝の御台所は、原作者の永井路子の評価がとても低い。
でも、実朝の死後すぐに落飾、菩提を永く弔ったというから、夫婦仲が良かったと考えるのは不自然ではないし、京から嫁いできて、鎌倉では異邦人といえる彼女の視点で描くことによって、実朝の孤独がより一層浮き彫りになっていた。
「原作を離れた脚色」って、こういうのを言うんだよ。


番組の終わりに、「草燃える」の演出をした大原誠氏が「大河ではなくなっている」と今の大河ドラマに苦言を呈していた。
これだけ本気の作品を創っていた人からしたら、昨今の大河ドラマはさぞストレスが溜まることでしょう。

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ところで、天地人「北の独眼竜」。
ようやく直江兼続が主人公らしく・・・と思ったら、台詞が悉くとってつけたよう。
「義」とか「民のため」とか、立派な単語が並ぶわりに説得力は皆無。
大河ドラマでは、その時々の局面において、登場人物がどう行動したかを見たいのであって、主人公がエラそうなことをのたまうのを見たいわけではないんだが。
脚本も演出も、「歴史に興味ないでしょ」と問い詰めたい気持ちでいっぱいです。
「姫しゃま、姫しゃま」言わされるよりはマシだけど、これはこれで困ったもんだ。
今のところ、珍解釈の押し付けがないこと、秀吉と茶々がかろうじて役者の魅力が感じられることだけが救い。

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2009年7月 8日 (水)

世界は村上春樹をどう読むか

翻訳の苦労話というのは昔から好きだし、「村上春樹」を一つのフィルターとして世界を見るのは面白そうだなと思って読んでみた。
だからといってフィルターとなる作家が誰でもよいわけではなく、村上春樹であることも重要なんですが。
「世界は林真理子をどう読むか」だったら読まないし。
村上春樹について知るには直接村上春樹の著作を読めばいいと思う。なにしろ「原語」で味わえるんだから。

表紙カバーのデザインが日本版とはまったく違っていたり、「俺と僕」という一人称、カタカナとひらがなの違いをどう表現するか、自動車などの固有名詞・料理の訳し方など、翻訳で苦心するポイントが国によって多種多様。
いずれフランス語版の「トニー滝谷」を読んでみたい。


アジア圏の翻訳者よりも欧米の翻訳者の発言のほうがスッと入ってくるのは、子どもの頃から欧米の文学をより多く読んでいるからかなー、なんて思った。
漢文の授業はあるし、中国の古典は基礎的な素養の部分には影響があると思うのだけど、近代文学で読んだ量となると欧米が圧倒的に多いので、意識にのぼるような影響は欧米から受けているほうが多いかなと。

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傘とカッパと自転車と

自転車の傘差し運転、携帯を使いながらの運転が東京都の条例で禁止されて以来、日傘差し運転を見なくなった気がする。
非常に良いことである。
梅雨明けがまだで、晴れ間が少ないだけかもしれないけど。
雨の日の傘差しと携帯は相変わらず目にするので、警察はちゃんと取り締まってほしい。

ネットを見ていると、雨の日の傘差し禁止に異議を唱えているのを見かけるけれど、いずれも理由が破綻している。
「カッパのフードでは雨が顔に当るのを防げない。雨が目に入って視野が悪くなる」といわれれば「そうか、カッパも危険なのか」と思うけれど、だからといって傘差し運転(つまり片手運転)が危険であることにかわりはない。
だいたい「雨粒が顔にあたって視野が悪くなる」ほどの強い雨ならば、傘を差しても体や荷物は濡れてしまうわけで、危険を冒してまで傘差し運転するのは無意味です。
濡れるは危ないはでメリットがない。
「ちょっとの雨でいちいち雨具を着るのが面倒」というのも、「ちょっとの雨」なら傘など差さずに急いで目的地に向かえばよいこと。
急いでも濡れてしまうほどの長い距離を行くのなら、その時は雨具を着れば濡れずに済む。

激しい雨、横殴りの雨の日は、歩行者もレインコートやカッパを着るし、電車に乗る際にレインコートやカッパの処置に悩むのは自転車だけの話じゃないんですけどね。

※ちなみに、私はビニール袋を用意しておいて、その中にカッパと折りたたみ傘を入れて電車に乗ります。


以前、上海に行った時に見た雨の日の自転車ポンチョの集団がなかなか壮観だった。
そのポンチョは前がカゴまでかくれるくらい長くて、雨を防げるすぐれもの。
上海旅行で一番感心したのは、もしかしたらこの自転車用ポンチョかもしれない。
なお、上海の自転車は傘差し運転などしたら命を落としそうなくらいの猛スピードで走行していた。


禁止事項ではないけれど、バッグを肩に掛けて(斜め掛けでなく)自転車に乗るのも見ていて危なっかしい。
これ、女性に多いんですが、バッグが肩からはずれるとバランスを崩しそうでヒヤヒヤする。
で、この肩掛けのバッグ、電車でもしばしば迷惑してます。
「自分の邪魔にならないように」バッグを肘で後ろに押す人が多いけど、バッグを押し付けられたほうはたまらん。
リュック同様、肩掛けバッグだって他人の邪魔にならないように配慮すべきだと思う。

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2009年7月 7日 (火)

光の回廊

清原なつの「光の回廊」を読みました。
光明皇后こと安宿媛(あすかべひめ)が主人公。
光明皇后というと、とにかく美化された退屈な存在と思っていたけれど、清原なつのが描く光明子は優しくて強くて残酷で、読み応えがありました。
ところどころギャグタッチだし、あえて時代考証を無視していたりもして、でも、それでいて飛鳥~天平の馥郁たる空気は感じられる。
旋回ダンスは時代的にちょっと違う気がしたけれど、ゾロアスター教とお水取りの様式の類似は言われてみればなるほど。
それと、藤原不比等と橘三千代のさりげない会話に、永井路子の「歴史をさわがせた女たち」を思い出したりもしました。


歴史を題材にした少女マンガは、為政者の冷酷な面も描かれていたりと、奥行きのある作品が多いのに、このところ「女性脚本家」が手がけると歴史が薄っぺらく人物が平板になってしまうのはなぜ。
創作力の乏しい薄っぺらい人が脚本家を目指すのか、ドラマ制作の現場がそういう脚本家に育ててしまうのか。

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2009年7月 6日 (月)

お姫さま顔

「天地人」は相変わらずビミョーだけど、笹野高史の秀吉のために見続けているようなもの。
新たに登場した深田恭子の茶々も、おっとりした中に傲慢さをのぞかせて、これは良い。
いかにもお姫様らしい華があって、この茶々ならば秀吉が夢中になることも、後に政治情勢がまったく読めなくて自滅に至ることにも納得が行く。
笹野秀吉と良いコンビ。
お姫様役は役によっては必ずしも美人でなくてもよいけれど、そこはかとないお姫様らしさは不可欠。
顔を強ばらせた町娘が打ち掛けを着ているようにしか見えない女優を頭の中で「これは姫なんだ」と変換しながらテレビを見るのは疲れるので勘弁してほしい。
なお、「功名が辻」の茶々は、永作博美の悪女演技自体は迫力があったのだけど、キャラクターに矛盾が多すぎた。
あれだけ陰謀を企む頭があるのなら、もっと賢明に振舞えたはず。


それから、TBS「官僚たちの夏」。
TV朝日の「刑事一代」に続いて骨太なドラマで、「やればできるじゃん」と思った。
それにしても、ずっと骨太で良質なドラマを作り続けているNHKが大河ドラマに限っては迷走しているのはなぜなのでしょう。

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2009年7月 5日 (日)

おりんぱすぺん

新宿駅西口でOLYMPUS PENの広告を展開中。
ここには定期的にオリンパスの広告が掲示されるのだけど、微妙な広告ばかりなのが気になっています。
コンデジの広告など、コンセプトも衣装もメイクもドンくさくて、メインキャラクターの浅田真央を好ましく思わない私でも可哀想に思えてしまうくらいに酷い。
で、今度のOLYMPUS PENは、コンデジとは打って変わってクールでオシャレなイメージを打ち出してはいるけれど、実際にカメラを手にとってみた印象と大きくかけはなれている。
ちょっとレトロなデザイン、「ポケットに入るような小型軽量の一眼」と女の子も気楽に持ち歩ける重さと軽さで、「チェックのシャツとジーンズを着た宮崎あおいが旅先で出会った男の子の写真を撮る」という、ちょっと前の一眼レフのCMがぴったりのカメラ。
それなのに、同じ宮崎あおいを起用しながら、わざわざ「黒いドレス・濃いアイメイク・ノーズシャドウ」って、カメラの何をアピールしたかったのか。
カメラの個性をアピールしたいのなら、従来の宮崎あおいのイメージで良かったし、モード系の広告にしたいのなら、宮崎あおいじゃなくても他にふさわしい美人モデルや女優がいる。

追記:
OLYMPUS PENは一眼レフとしてみれば小さいものの、持ってみると意外と重いし、片手では持ちにくい形状になっている。
女の子が「片手でパシャッ」というタイプのカメラではありません。
その点からも広告には違和感あり。
そのくせ「レンズ交換」という最もアピールすべき特徴及びメリットはポスターやCMからはわからない。

オリンパスの広告って、これに限らず、ここ数年どこかズレている。
他の会社のカメラの広告は、まず打ち出したいイメージがあって、それに合わせてタレントを選んでいるように見える。
実情は違うかもしれないけど、少なくともそう思えるくらいに広告のイメージと起用タレントは合っている。
愛用のTZシリーズも、「“きみまろズーム”はやめてくれー」と思いはしたけど、10倍ズームと使いやすさをアピールしたいという広告の意図は理解できたし。
でも、オリンパスは「まずタレントありきで、無理矢理企画を考えた広告」にしか見えない。
カメラを購入する時に広告に左右されることはないけれど、意図がわからない広告はストレスがたまる。

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2009年7月 1日 (水)

風街みなと~イスタンブール

「風街みなと」のイスタンブールの回を見ました。
番組ではエジプシャン・バザールのスパイス屋さんをフィーチャーしていたけど、個人的に注目したのはサバサンドの屋台船。
「屋台の船が揺れる」ということは、まのとのまの「無敵のトルコ」で読んで知っていたけど、想像していたよりもひどい揺れだったので驚いた。
見ているだけで酔いそうなくらい揺れていた。

トルコへは前にツアーで行ったけれど、遺跡数箇所とカッパドキアを巡る旅であったため、イスタンブール観光は駆け足。
食べたかったもの、見たかった場所、もっとじっくり見たい場所と、いろいろと宿題を残してしまった街です。
船の屋台のサバサンドはその一つ。
自分でも作ってみて美味しいのは確認済みだけど、やはり現地で食べてみたい。


イスタンブールは「個人旅行でも大丈夫」というのが自由時間に一人で歩いてみて得た感触。
ただし、貴重品はセーフティボックスに預けてじゅうぶん注意すれば、ですが。

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サンタフェ?

☆児童ポルノ規制法に関して、児童ポルノの単純所持を禁止してもまっとうな人は困らないよねーと思っていたら、なんと「サンタフェ」が俎上にあがっているとのこと。
「サンタフェ」の所持がいけないのなら、「ロミオとジュリエット」も法に触れることになるし、それだったら単純所持禁止は反対・・・というのも変でしょう。
どさくさにまぎれてなんでも規制しようとするのも、言論の自由を盾に規制を緩めようとするのもどちらもダメでしょ。
「児童ポルノ」の単純所持禁止は賛成、芸術作品の規制は反対、です。

児童ポルノ規制が必要なのは、それが児童虐待につながるから。
議論している人たち、なーんか目的を見失ってはいませんか。
そもそも、一般的な感覚でいう「児童」は13歳くらいまでだし、「児童ポルノ」という言葉から想定するのもそれくらいの年齢でしょう。
15、16歳の子を「児童」と思う人はほとんどいない。普通は。
もちろん14歳以上は放っておいてもよいということではないけれど、それは別途考えればよいこと。
だいいち、常識で考えれば、「個人が隠し持っている幼児や児童のエロ写真」と「一般に流通している芸術作品」が違うことくらいわかる。
「サンタフェ」が児童ポルノに見えてしまうのだとしたら、その感覚が怖いわ。
そこを忘れた議論など本末転倒。
基本的に陰謀論は嫌いだけど、極論を持ち出す輩は、児童ポルノ規制をつぶしたいんじゃないかとさえ思う。


☆宮崎県の東国原知事が出馬条件は総裁候補発言は、国政転身を穏便に断るためのウイットなのかと思ったら、どうもそうではないらしい。
それどころか「入閣を検討」って、おい!
以前から疑問なのだけど、東国原知事って宮崎以外でそんなに人気があるだろうか。
それとマンゴーのセールス以外、実質的にどういう仕事をしているかも知らないし、人気も実績も実質をともなっているようには見えない。
実績と呼べるものができるのは、知事の任期を全うしたら、でしょう。


☆「支持率」というのは、どこでどういうふうに調査しているデータなのだろうか。
麻生首相を積極的に支持するかと問われれば否だけど、辞めるべきかと問われればそれも否。
麻生首相は漢字には弱いけど、意外と発言には慎重で、マスゴミに迂闊に言質をとられるようなことは言っていないので、そこのところは評価している。
少なくとも、自党の献金疑惑で陰謀論を持ち出したり、党首討論でUIとか言っている現実感のない人よりはマシかな。
東国原入閣はやめてほしいが。

追記:
この先、選挙で自民党が大敗するとしたら、その原因は麻生首相ではなく、今足を引っ張っている人たちとマスゴミの印象操作のせいだと思う。

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