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2009年8月

2009年8月28日 (金)

鋼の錬金術師

「鋼の錬金術師」にハマっております。
夢中なのは原作コミックのほうだけど、アニメも4話から録画継続中。

前シリーズのアニメは、キャラクターや錬金術という題材には興味があったけど、話のトーンがちょっと暗く、ウェットな感じがして、放映時間にたまたま家にいれば見るけど・・・という感じでほぼスルー。
劇場版がテレビ放映された時は、ストーリーがよくわからなかった・・・。

新シリーズが始まって、チラッと見てみたところ、全体の印象が前シリーズほど暗くなく、シリアスとコミカルな部分の兼ね合いがほどよい感じ。
HDDの容量にも余裕があることだしと毎週録画予約することに。
そのうち先の展開が知りたくなって、5月の連休に原作のコミックをぱらぱら読んでみたら、ものすごく面白い!
重いテーマにもかかわらず深刻になりすぎず、絵がきれいだし、世界観・ストーリーの面白さ・登場人物の魅力と三拍子揃ってる。
そのままハマッてしまって一気に大人買いし、今に至る。

前作のアニメから好きだった要素だけど、軍服のデザインも好き。
シンプルで、それでいて、ちょっとクラシカルで。
決して軍服フェチではないんだけど(戦争映画とか好きじゃないし)、ユニフォームが出てくる以上はセンスの良いものを見たいんである。

一番好きなキャラクターはロイ・マスタング大佐なんですが、二次元にときめくのはハウル以来だろうか。

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2009年8月26日 (水)

過程が見たいんじゃないんだな

CSで放送中の「純情きらり」を杉冬吾役の西島秀俊目当てで見てます。
リアルタイムではほとんど見なかったけど、笛子と冬吾、不器用な大人の恋愛パートが面白い。
笛子役の寺島しのぶは「剣客商売」の三冬役だけは納得いかないけど、それ以外はわりと好き。
「アキハバラ@DEEP」のアクションは凄かった。
福士誠治演じる達彦もモボなスーツや和服が似合う。
そういえば、井川遥を見直したのがこのドラマで、ドラマに出演し始めた頃はどうなることかと思ったけど、ちょっとずつ、でも堅実に成長するタイプだったようです。
「風林火山」も堂々の演技だった。

「海でのはなし」も録画するつもり。
内容には文句たらたらだけど、「『ロビンソン』を熱唱する西島秀俊」は、やはりHDDに収めたい。


ところで両作品のヒロイン宮崎あおいを、糸井重里と堺雅人が「ほぼ日」の対談で褒めていたけど、「自分がなぜ宮崎あおいを好きでなくなったのか」が少しわかった気がする。

宮崎あおいは現場で関わった人からの賞賛の声が多い。
そして、そのためなのかどうか、このところの出演作は「頑張っている宮崎あおい」を見せられているように感じてしまう。
「この子はこんなすごいことができるんですよ~」って感じ。
それが鼻につくのだ、と思い至りました。


「純情きらり」にはヒロインがピアノを弾く場面が登場するけれど、戦前という時代に、裕福とはいえない家庭環境で音楽学校へ進学しようというからには、視聴者の目から見ても捨てるには惜しい才能があると思わせる必要があった。
そうでないと、単なるワガママに感じてしまうから。
なので、桜子の音楽的才能を「視聴者に」わからせることはドラマの最重要事項だったはずで、そのために宮崎あおいのピアノ演奏に力を入れたことまではわかるんだけど、なんだか目的と手段を間違えた感じ。
どれも「頑張ってピアノを弾く宮崎あおい」にしか見えない。
素人とプロを目指すレベルでは、身体の微妙な動きからして違うのだけど、上手い人はその微妙な部分をきちんと演じている。
このドラマでも、「達彦さん」のピアノ演奏の場面には違和感がなかった。
そりゃ音と腕がズレていたりするドラマがあることを考えれば、「頑張って弾く」のは真っ当な努力ではあるけれど、本来女優が頑張るところはそこじゃないでしょ、と思うんである。

たとえば、「のだめカンタービレ」で、上野樹里が素でピアノを上手く弾いたとしても、それでは野田恵というキャラクターにはならないわけで、ピアノの腕や手の動き以外でもちゃんと「のだめ」に見せたことも大きい。
のだめの場合、設定されるピアノのレベルが高すぎて、「らしく見せる」以外の選択肢はない、というのはあるけれど。

「純情きらり」は、いっそピアノを弾く場面では全身を音大レベルの実力を持った人と吹き替えたほうが、よほど桜子と音楽の係わりにリアリティを感じられたんじゃないか。
「篤姫」も然りで、「宮崎あおいが老け演技を頑張った」と賞賛の声があったことは知っているけれど、相応な年齢の女優に交代したほうが自然だったはず。
少なくとも私が見たかったのは動乱の時期に気骨を見せた天璋院という女性であって、「眉間にシワと作り声で老け役を演じる宮崎あおい」ではなかったです。

メイキングを見るのは好きだし、撮影の裏話や役作りの苦労みたいな話には興味があるけど、それは作品や演技に納得できたうえでのこと。
女優の努力や成長を見せたいのなら、ドキュメンタリーでやってくれと思う。


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2009年8月25日 (火)

成熟せずに衰える

「いわゆるオバサン」というのは、年齢ではなく行動や思考様式による、というのが常日頃からの私の主張。
したがって中学生のオバサンや高校生のオバサンも存在するし、年を経てもオバサンにはならない人もいる。
そして、若い頃の「吉本ばなな」は決してオバサン的な人ではなかった、と思う。
よしもとばななの本で読んだことがあるのは「キッチン」、「TSUGUMI」、「白河夜船」で、小説は独特の透明感があって面白かった。
エッセイはどうしても素や地が出るものなので、感性や想像力で勝負するタイプの人のは味わいに欠けるので、私には退屈だったけど、少なくとも昔のエッセイからは特に非常識さは感じなかった。

ネットで論争というか、批判されたよしもとばななのワイン持ち込みの件とブログを見ていて、オバサン的資質の持ち主ではないと思っていた人が、こんなにもオバサンになってしまうものなのね、と思った。
「ちょっとくらいイイじゃない」とゴリ押しするのはオバサンにありがちな行動様式だから。
なお、ワイン持ち込みに対するおおよその感想及び意見は世間の大方の声と同じ。
・チェーン店でお酒の持ち込みが不可なのは当然
・持ち込みたいなら店主と懇意な店に行け
・人脈を持っている面子なら、懇意にしている店くらいあるんじゃないの?
・「もしも店長がもうちょっと頭が良かったら・・・」以下は感じ悪い
・客に聞こえるようにバイトを叱った点のみ、店長に非がある
・・・といったところ。

昔、「感受性が鋭すぎて不器用な女の子がいかにして大人になるか」という題材の少女漫画を好んで読んだ時期があったけど、デビュー当時のよしもとばななにもそんなイメージを持っていて、そういう鋭敏さゆえに不器用な子が大人になる過程というのは、世間との折り合いをつけつつ成長していく、というのが定番だと思っていた。
無用な尖がりを少し削って、繊細さを保護する術を身につけながら成長するものだと。
でも、よしもとばななは尖った部分はそのままに、折り合いではなく世間に一方的な要求をすることを選んだようで。
ここまで自分本位で図々しい思考の持ち主になるとは意外だったな。
モンゴメリーの短編集「アンの友達」の「ルシンダついに語る」に、「成熟はしても老けはしない」というフレーズが出てくるけど、その逆って感じ。

それと、この人の言う「いいときの日本」って何時だ?と思ってしまった。
よしもとばななが知っていて、「三十四歳の男の子」が知らない「いいとき」というと、バブル期のことかなとも思うけど、当時恩恵を受けた人も受けなかった人も、バブルの崩壊後は後遺症や後始末に苦しんだので、こうまで無邪気に「いいときの日本」と認識しているのだとしたら、あまりにも世間知らず過ぎる。
バブル期の「地に足のつかなさ」に対する反省がないとしたら、地道に仕事をしている人への思いやりが欠けているのも頷ける。

融通を利かす--ワインの持ち込みを見逃す--ことで得られたはずのチャンス(つまり、自分たちが上得意になった可能性)を失った、という見方も順序が逆。
お店で融通を利かせてもらえるようになるのは、「お得意さん」になった後のことだし、一朝一夕で「お得意さん」になれると思ったら大間違い。
(そのあたりのこと、伊丹十三のエッセイに出てきたような気がする。)


--引用及びリンク--
活字中毒R。


『人生の旅をゆく』(よしもとばなな著・幻冬舎文庫)より。

この間東京で居酒屋に行ったとき、もちろんビールやおつまみをたくさん注文したあとで、友だちがヨーロッパみやげのデザートワインを開けよう、と言い出した。その子は一時帰国していたが、もう当分の間外国に住むことが決定していて、その日は彼女の送別会もかねていたのだった。
 それで、お店の人にこっそりとグラスをわけてくれる? と相談したら、気のいいバイトの女の子がビールグラスを余分に出してくれた。コルク用の栓抜きはないということだったので、近所にある閉店後の友だちの店から借りてきた。
 それであまりおおっぴらに飲んではいけないから、こそこそと開けて小さく乾杯をして、一本のワインを七人でちょっとずつ味見していたわけだ。
 ちなみにお客さんは私たちしかいなかったし、閉店まであと二時間という感じであった。
 するとまず、厨房でバイトの女の子が激しく叱られているのが聞こえてきた
 さらに、突然店長というどう考えても年下の若者が出てきて、私たちに説教しはじめた。こういうことをしてもらったら困る、ここはお店である、などなど。
 私たちはいちおう事情を言った。この人は、こういうわけでもう日本にいなくなるのです。その本人がおみやげとして海外から持ってきた特別なお酒なんです。どうしてもだめでしょうか? いくらかお金もお支払いしますから……。
 店長には言わなかったが、もっと書くと実はそのワインはその子の亡くなったご主人の散骨旅行のおみやげでもあった。人にはいろいろな事情があるものだ。
 しかし、店長は言った。ばかみたいにまじめな顔でだ。
「こういうことを一度許してしまいますと、きりがなくなるのです」
 いったい何のきりなのかよくわからないが、店の人がそこまで大ごとと感じるならまあしかたない、とみな怒るでもなくお会計をして店を出た。そして道ばたで楽しく回し飲みをしてしゃべった。
 もしも店長がもうちょっと頭がよかったら、私たちのちょっと異様な年齢層やルックスや話し方を見てすぐに、みながそれぞれの仕事のうえでかなりの人脈を持っているということがわかるはずだ。それが成功する人のつかみというもので、本屋さんに行けばそういう本が山ほど出ているし、きっと経営者とか店長とか名のつく人はみんなそういう本の一冊くらいは持っているのだろうが、結局は本ではだめで、その人自身の目がそれを見ることができるかどうかにすべてはかかっている。うまくいく店は、必ずそういうことがわかる人がやっているものだ。
 そしてその瞬間に、彼はまた持ち込みが起こるすべてのリスクとひきかえに、その人たちがそれぞれに連れてくるかもしれなかった大勢のお客さんを全部失ったわけだ。

 居酒屋で土曜日の夜中の一時に客がゼロ、という状況はけっこう深刻である。
 その深刻さが回避されるかもしれない、ほんの一瞬のチャンスをみごとに彼は失ったのである。そして多分あの店はもうないだろう、と思う。店長がすげかえられるか、別の居酒屋になっているだろう。
 これが、ようするに、都会のチェーン店で起こっていることの縮図である。
 それでいちいち開店資金だのマーケティングだのでお金をかけているのだから、もうけが出るはずがない。人材こそが宝であり、客も人間。そのことがわかっていないで無難に無難に中間を行こうとしてみんな失敗するのだ。それで、口をそろえて言うのは「不況だから」「遅くまで飲む人が減ったから」「もっと自然食をうちだしたおつまみにしてみたら」「コンセプトを変えてみたら」「場所はいいのにお客さんがつかない」などなどである。

(中略)

 というわけで、いつのまに東京の居酒屋は役所になってしまったのだろう? と思いつつ、二度とは行かないということで、私たちには痛くもかゆくもなく丸く収まった問題だったのだが、いっしょにいた三十四歳の男の子が「まあ、当然といえば当然か」とつぶやいたのが気になった。そうか、この世代はもうそういうことに慣れているんだなあ、と思ったのだ。いいときの日本を知らないんだなあ。


スーパー銭湯に刺青隠さずに入ろうとしたら止められた。潰れるように呪いをかけた。 2001.11.07
新幹線で自分の子供が騒いでたら注意された。日本終わったな。 2006.07.07
スーパーで注意してたのに子供が騒いでたら白い目で見られた。日本出て行くから別にいいけど。2007.03.11
家具を注文して設置の手配はしていなかったけど、クレーム出したらなんとかしてくれた。日本はアメリカ以上にいいかげん。2007.06.20
Via Bus Stop開店5分前に店に入ろうとしたら怒られた。この店もフランスみたいになったね。2009.02.23
39度の熱が出たので救急車呼んだら怒られた。2009.05.06
運送業は自分の頭で考えない。生きがいを感じることのできない仕事。 2009.08.04

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2009年8月16日 (日)

ココ・シャネル

新宿にて映画「ココ・シャネル」を鑑賞。
最初に観ようと思った回は既に立ち見で、次の回の整理券をとって、いろいろと用を済ませて再び映画館へ。
最近は、シネコンで見ることがほとんど。
シネコンは、ネットで混雑状況を確認の上、席を確保できるので、映画館に行くまで席があるかどうかわからなかったり、整理券を持って並んだり、というシステムが非常に面倒くさく感じるようになっている自分がいる。
以前はそれが普通だったんですけどね。


シャネルの品物は一つも持っていない私だけれど、ココ・シャネルの生涯と生きた時代には興味があります。
映画は幼少期から恋人のカペルを失うまでの若き日のシャネルと、第二次大戦後のシャネルを描いていて、尊大で、でもエレガントな晩年のシャネルを演じるシャーリー・マックレーンが貫禄の演技。
でも、映画の実質的な主人公は若き日のシャネルでした。
若きシャネルを演じたバルボラ・ボブローヴァが良かったです。
映画のコスチュームを見るのが大好きなので、19世紀末から20世紀半ばまでのファッションの変遷が見られて幸せ。
大好きな映画「ハワーズ・エンド」でヘレナ・ボナム・カーター演じるヘレンが着ていた、当時としては少しカジュアルな感じの衣装は、ジャージー素材を取り入れたシャネルの影響を受けたものかしら、なんて思ったりした。
(好みとしてはエマ・トンプソンの衣装のほうが好きだったけど)
春先に「ポワレとフォルチュニィ展」を見に行ったので、シャネルがポール・ポワレに敵愾心を燃やす場面にはニヤッとしました。
シャネルがただ発想力に優れていただけでなく、優秀なお針子で、手作りの精緻さにこだわる職人気質な人であったことも印象的だった。
自分の「手」でモノを作り出せる人の強さ、とでもいうのか。


脚本がエンリコ・メディオーリということで、全体的に過不足なくて面白かったんですが、カペルと再会の約束をした後の回想シーンだけは要らなかったかな。いかにもな死亡フラグで。
それと、惜しむらくは英語であったこと。
英語で会話するシャネルはちょっと妙な感じで、フランスが舞台の話はフランス語で見たかった。
秋にはオドレイ・トトゥ主演の「ココ・アヴァン・シャネル」が公開されるので、そちらも観てみたい。

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2009年8月12日 (水)

のだめの錬金術師

待ちに待った「のだめカンタービレ」22巻と「鋼の錬金術師」23巻が相次いで発売!


☆「のだめ」は発売がほぼ一年延期されて、待ち遠しさのあまり、文庫で出た「天才!ファミリーカンパニー」を読んで紛らわせたりもしました。
これもものすごく面白かったけど。
折りしも先週帰省した際、のだめ未体験の友人に勧めてきたところ。
1巻からまっさらな状態で楽しめるなんてうらやましい(笑)。

22巻を読んで、お約束のようにiPodでショパンのピアノ協奏曲第一番を聴いております。
日本編では経験と準備不足からコンクールに失敗したけれど、今度は経験も積んで、準備も十分。
ミルヒーとの協奏曲は大成功をおさめる。
でも、日本編よりも成長したとはいえ、いかんせん蓄積がないから、今度は燃えつき症候群。
オクレール先生がのだめをコンクールに出場させることに慎重だったのは、こういう事態を危惧してのことだったか。
千秋の漠然とした不安も同じく。

「のだめ」のこのところの展開って、中村紘子の「コンクールでお会いしましょう」を読むと、より楽しめるかもしれない。
というか、私は読んでいたおかげで楽しめたと思う。

#それにつけても、西島秀俊があと10歳若かったら、千秋のイメージぴったりなのに。


☆「鋼の錬金術師」23巻もいよいよ佳境。
復讐の念にかられてダークサイドに堕ちかけたマスタング大佐が素敵♪
憎しみの連鎖から解き放たれた傷の男(スカー)も男前。
エンヴィーの自尊心が哀れ。

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2009年8月 7日 (金)

週刊文春090820

☆「3000人読者が選んだニッポンの「偉い人」116人」
アンケート結果を見ながらの半藤一利、福田和也、梯久美子の鼎談。
歴史好きにとっては面白い記事だった・・・のに、最後の麻生首相に言及した部分でがっかり。
半藤一利の「口をひん曲げて」という表現が下品だし、福田和也が近藤勇の斬首を持ち出したのも悪意が感じられるし。
最近の政局に関する記事は、どうせ偏向しているだろうからと読み飛ばしているけど、せっかく面白そうだと思って読んだ企画モノの記事で、こういうのにぶつかるとウンザリする。
うっかり犬のウンコを踏んだような気分。
「歴史上の偉人」がテーマのページで、現職の首相について言及する必要性も意味も感じられない。
「歴史上の偉人=亡くなった人」なわけで、資料の発見とか人の解釈によって変わるにしても、一応、功罪の評価は定まった存在といえる。
でも、生きている人、ましてや現職となれば功罪の評価はまだまだ先のこと。
それを一緒に論じてしまうのは乱暴だし、現政権の批判や揶揄をするならば、別の場を選ぶべきだと思う。

#現首相を「政権にしがみついて・・・」と批判する人たちは、「未曾有の経済危機」に直面している時期に「支持率が低いから」と辞任することを、「引き際がいい」とか「潔い」とか本気で思っているんですかね?
前から不思議なんだけど。


☆本当の「視聴率女王」決定戦!
「過去の3作品を徹底チェック」と銘打っているけど、他が民放の連ドラの中で一人だけ3作品全部NHKの人がいまーす。
朝ドラと大河ドラマを連ドラと同じ土俵にあげるのはなんか違う気がする。
時間帯も放送時間も視聴者層も違うのに。
視聴率を比較すること自体がナンセンスではあるけれど、比較する以上は条件は揃えないと。

「3作品ともがNHK」の宮崎あおいが、朝ドラと大河ドラマが20パーセントを超えていたにもかかわらず16.7というのは、それだけ「ちょっとまって神様」の視聴率が低かったということだけど、その「ちょっとまって神様」の宮崎あおいが他の2作品よりもはるかに可愛く魅力的で、ドラマとしても面白かったのだから、視聴率でドラマや女優の価値をはかるのは馬鹿げているということを証明しているようなもの。
#「高校の制服を着た泉ピン子」はインパクトがありすぎたけれど。

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中世の貴婦人

「THE ICE」の放送で、アナウンサーが浅田真央の「カプリース」を「中世の貴婦人が、社交界で扇を手に踊っている様をイメージしています」と言っていた。
「昔の貴婦人」くらいの意味合いで使用したのだろう、ということはわかるのだけど、歴史好きとしては非常に引っかかる表現。
これに限らず、過去の時代を「中世」で括っていることが意外と多く、マリー・アントワネットを「中世ヨーロッパ」に括ったり、もっと極端な例では「クイーン・ヴィクトリア~至上の恋」を見て「中世って素敵ね」と言うのを耳にしたこともある。
1901年に亡くなったヴィクトリア女王は、日本で言えば明治時代の人なのに。
で、こういう粗雑な括り方がとてもイヤ。
衣装やヘアスタイル一つとっても、中世・近世・近代と変遷していて、それをおしなべて「中世」と呼ぶのは大雑把すぎるというもの。
日本だって飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町・・・と時代によって違うのだし。

「カプリース」の演技だけをみるとコミカルなプログラムという印象なんだけど、ほんとに「中世の貴婦人が社交界で扇を持って踊る」イメージでプログラムを作ったんでしょーか。
中世の範囲がテキトーなのは日本だけではないのか。
ほんとはもっと別の時代をイメージしているのでは?
中世にはそもそも社交界という概念はなかったし(あるとしたら宮廷)、パガニーニは古典派の時代の人なんだけど。

「中世」という言葉から思い浮かぶのは宗教画、クリュニー美術館とそのタペストリー、プロヴァンの街並みなど。
この時代のダンスは、1968年度版「ロミオとジュリエット」の「ムレスカ」みたいな感じだったのだろうと思う。
それを、「扇を持って元気よくダンス」を中世と言われると、イメージの違いに戸惑ってしまいますことよ。

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2009年8月 4日 (火)

ドラマW「誘拐」

動機にはちょっと無理があったけれど、誘拐計画のディテールが面白かった。
秋月(三上博史)と星野警部(西島秀俊)の息詰まる頭脳戦は見応えがありました。
「頭脳明晰な役がちゃんと頭が良さそうに見える」のがいい。
これ、あたりまえのようでいてあたりまえではなくなってきていることなので。
総理大臣役の石坂浩二は貫禄の演技だし、尊大なエリート警察官の渡辺いっけい、官房長官役の矢島健一もはまっていた。
矢島健一は「探偵事務所5」の鍵屋の錠と同じ人とは思えない。
総理の孫娘も清楚で可愛く利発そう。今ドキこんなお嬢様らしい女の子がいるのか、と思った。
それから秋月を補佐する女を演じる中越典子。
アウトローでドライで頭も切れて、でもちょっと情もあって、というのが良かった。
近年の朝ドラ出身女優の中では一番演技の幅が広い人だと思う。
「サラリーマンNEO」にも出ているけど、コントって演技力がないとできないし。

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否定に対する拒否反応

以前、言い訳に対する声高な非難を憂えるエントリを書いたことがあるけれど、説明責任を声高に叫ぶことにも同じような危惧を感じてしまう。
「説明責任」、「知る権利」といえば聞こえはいいけど、要は自分が知りたいだけのことが多い。
「知りたい」という願望を主張するならともかく、当然の権利として振りかざしたりするのは違うでしょ、と思う。
政治であるとか会社の経営などについては厳として説明責任が存在するけれど、それ以外のことについてはケースバイケース。
社会の支持を得たいから自発的に説明しているだけ、ということも多いと思う。

それと、もう一つ気になるのが「否定の意思の表明」に対する拒否反応。
先だっての選挙ポスターの件でも、事の経緯とは関係なく、“自ブログで「応援していません」と否定の意思を表明したこと”に対する過剰な拒否反応が少なからずみられるけど、これって、ちょっと危険だと思う。
社会生活においてはストレートに「できません」「ありません」と否定せず、婉曲な表現を使うべき場面も多いけれど、あくまでも時と場合による。
きっぱりと直截な表現を使うべき時、使わざるを得ない場合もあって、このポスターの件は、まさしく、きっぱりと意思表示しなくてはならない事例。
しかも実名はあげずに「その方」という表現を使うなど、相手に対する「配慮」はしているわけで。
「ブログに書いたこと」を批判している人たちのいう「配慮」をした場合、「応援している」というイメージは払拭できないことになるけれど、相手が誰であろうと、そこまでの犠牲をはらわなくてはならない道理はないでしょ。
しかも被害者なんだし。

で、「婉曲さ」を過剰に要求する人は、往々にして、婉曲な表現の真意を察してはくれず、自分に都合のよい解釈をする傾向があったりもする。
結局は「拒否」そのものがいやなわけだから。

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2009年8月 3日 (月)

花火

Hanabi_4

花火が打ち上げられるたびに、近くにいた若い女の子が「ヤバイ」と「カワイイ」を連呼していた。
感動したのはよーくわかったんだけど。

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眞鍋かをり選挙ポスター騒動とブログの効用

このところ眞鍋かをり選挙ポスター騒動に注目しています。
http://www.j-cast.com/2009/08/02046576.html

ブログの読者ではないけれど「明るい酒豪の味方」なので、タモリ倶楽部で見る眞鍋かをりは好きだし、「とくダネ!」のコメントも、なにかと大勢に迎合したことを言おうとする高木美保のコメントよりも「自分の意見」を感じられるので好感を持っている。

芸能人のブログは両刃の刃だと思っているけど、今回の件はブログの長所を有効に活用した例だと思う。
以前、文春の阿川佐和子との対談を読んで、芸能人にはめずらしくブログの特性をわかっているなと思ったけど、伊達に「ブログの女王」じゃないですね。
ネットには眞鍋かをりが「穏便に済まさずにブログに書いたこと」を非難する声もあったけれど、それは見当違いというもの。
事務所のコントロール下にあるビジネスに関することならば、ブログに書くべきではないこともあるだろうけど、この件は個人の思想・信条の問題。
応援しているかのようなポスターが掲示され、そのことが新聞記事になった以上、「水面下の処理」など無意味です。
「特定の誰かを応援してはいない」というスタンスをできるだけ早急にかつ鮮明に表明する必要がある。
そして、その場として自分のブログは一番適切かつ有効なメディア。
マスコミ経由では、歪曲されたり捏造される危険性があるし、現実にデイリースポーツがそれをしでかしているわけだし。

この件は、いろいろ勉強にもなりました。
当初は、政治家側のコメント(都内の知人を介して・・・、講演会はこれからオファーなど)から、きちんと契約書などが存在していないことは察せられたので、事務所の許可及び契約書の有無が争点なのかと思っていたら、どうも問題点はそこじゃなかったんですね。
選挙応援は個人の思想・信条の問題であり、ギャラは発生しない。
ビジネスではないし、事務所も思想・信条についてはタレントを縛ることはできない。

つまり事務所が許可するしない以前の問題である、と。
それに、テレビ出演がキャンセルになったことを考えても、タレントが特定の誰かを選挙で応援することは、事務所にとってデメリットはあれどメリットはないので、よしんば本人の知らないところで事務所がOKを出していたのだとしたら、ずいぶんと脇が甘いなーと思っていたら、ここにきて事務所はきっぱり否定
事務所の態度が不鮮明だったのは、おそらく「仲介者」に配慮して穏便に済まそうと思ってのことで(一応仕事仲間だし)、声明を出したのは、デイリースポーツが「眞鍋かをり写真使用は無断じゃなかった」と書いたために放置しておけなくなったと思われる。


ビジネス上の手続きの不備やコミュニケーション不足によるトラブルはよくある話だけど、この件はそれとはちょっと性質が違う。
選挙が絡む以上、「個人的に応援しているか否か」が最重要視されるべき点。
写真の許可が問題になるのは、それが「応援」の意思表示と見なされるから。
眞鍋かをりはそこがわかっていたから「誰も応援していない」と宣言したわけだけれど、政治家氏は今でも「無断使用か否か」が問題だったと認識しているようですね。
眞鍋かをりの思想・信条までもが事務所に帰属すると思っているんでしょーか。

「応援していただいていると思っていたが、そうではなくて残念です」くらいに言っておけばよかったのに。

前述のとおり私は眞鍋かをりには好感を持っているけれど、だからといって写真を載せることに選挙活動にどれほどの効果があるのかは疑問だったりもするので、どうしてこういう事態になったのか不思議。

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2009年8月 1日 (土)

日差し対策

長らくコットンの帽子を被っていたけれど、通気性に不満を感じるようになってきて、かといって麦わら帽子は折りたためないから不便だし・・・と思っていたところ、ラフィアという折りたためる天然素材の存在を知りました。
早速、デパートの帽子売り場に出かけたのだけど、そこでヘレン・カミンスキーを手にとってしまったのが運のつき(笑)。
ヘレン・カミンスキーは帽子としては非常に高価だし、他にもっと手頃な価格のラフィアの帽子もあって、それはそれで悪くなかったのだけど、素材の質から形から、微妙に、でも絶対的な違いがあるのです。
安いほうを買っても後々まで未練が残る気がして、思い切ってヘレン・カミンスキーを買ってしまいました。
我慢するのも大人だけど、ほんとに欲しいと思ったものを買えるのもまた大人。

ヘレン・カミンスキーのPROVENCE10は、涼しいし、折りたためるし、被った感じは素敵だし、ちょっとの風なら飛びそうもない。
高いには高いなりの理由があるもんだ、と深く納得。


それから黒の晴雨兼用の傘も購入。
昔、淡い色の晴雨兼用の傘を急な雨が降った時に差したら薄汚れて使えなくなり、「日傘といえば涼しげな白か生成り!」という思いこみもあったりして、以来「晴雨兼用って兼用にならないよね」と、折りたたみの雨傘と日傘を使い分けていた。
雨天か晴天かはっきりしている時ならば、それに応じて傘を持っていけばよいけれど、困るのはどっちつかずのお天気の日と旅行。
旅先には、いくら軽量小型タイプとはいえ傘を2本も持っていきたくないので、雨傘を持って行くことになるけれど、時には日傘が欲しくなることもある。特に海外。

雨傘を日傘代わりに差すという手もあるけれど、基本的には「郷に入れば郷に従え」主義な私が、日傘を持つ人が稀な海外で、敢えて日傘を差そうと考えるのは、よほど日差しが強い時なので、差す以上は紫外線防止効果が強力な日傘が望ましい。
旅先で日本人観光客の「過剰な」紫外線対策に違和感を感じた、ということは以前に書いたし、日差しがないところや、日が翳った夕方に日傘を差しているのを見ると過剰反応だと思うけど、熱中症対策と「あまり過剰でない」紫外線対策は必須。
炎天下を10分ほど歩いて鼻血を出したこともあるし、日焼けしすぎて火傷のようになるというイタイ経験もあり。
逆に日傘を雨傘として差すのは、撥水効果などに不安があるので却下。

というわけで、「黒い日傘のほうが紫外線防止効果が高い」と言われるようになって久しいし、「黒ならば汚れも目立たないじゃないか」と今更気づいて、ようやく購入に踏み切った次第です。

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