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2009年8月 4日 (火)

否定に対する拒否反応

以前、言い訳に対する声高な非難を憂えるエントリを書いたことがあるけれど、説明責任を声高に叫ぶことにも同じような危惧を感じてしまう。
「説明責任」、「知る権利」といえば聞こえはいいけど、要は自分が知りたいだけのことが多い。
「知りたい」という願望を主張するならともかく、当然の権利として振りかざしたりするのは違うでしょ、と思う。
政治であるとか会社の経営などについては厳として説明責任が存在するけれど、それ以外のことについてはケースバイケース。
社会の支持を得たいから自発的に説明しているだけ、ということも多いと思う。

それと、もう一つ気になるのが「否定の意思の表明」に対する拒否反応。
先だっての選挙ポスターの件でも、事の経緯とは関係なく、“自ブログで「応援していません」と否定の意思を表明したこと”に対する過剰な拒否反応が少なからずみられるけど、これって、ちょっと危険だと思う。
社会生活においてはストレートに「できません」「ありません」と否定せず、婉曲な表現を使うべき場面も多いけれど、あくまでも時と場合による。
きっぱりと直截な表現を使うべき時、使わざるを得ない場合もあって、このポスターの件は、まさしく、きっぱりと意思表示しなくてはならない事例。
しかも実名はあげずに「その方」という表現を使うなど、相手に対する「配慮」はしているわけで。
「ブログに書いたこと」を批判している人たちのいう「配慮」をした場合、「応援している」というイメージは払拭できないことになるけれど、相手が誰であろうと、そこまでの犠牲をはらわなくてはならない道理はないでしょ。
しかも被害者なんだし。

で、「婉曲さ」を過剰に要求する人は、往々にして、婉曲な表現の真意を察してはくれず、自分に都合のよい解釈をする傾向があったりもする。
結局は「拒否」そのものがいやなわけだから。

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