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2009年11月

2009年11月30日 (月)

五右衛門刑死、北政所~黄金の日日

CSで視聴している「黄金の日日」は第46回の石川五右衛門が釜茹での刑の場面を迎えた。
薄笑いを浮かべて後ろ向きに飛び込む名シーン。
根津甚八の石川五右衛門は破滅型の男の魅力の粋。

それよりも数回話は遡り、第43回には大政所の危篤を秀吉にどうやって知らせるかを、十朱幸代演じる北政所が関白秀次(桜木健一)に手取り足取り指導する場面がでてくる。
母親思いの秀吉が母危篤の知らせを聞いてショックを受けることを案じつつ、素直で気は好いけど単細胞な秀次の株をなんとか上げてやろうと心を砕くも、そういう心遣いを察せず、いい気になっている秀次にムカッ腹を立て、「豊臣家は秀吉と女房の自分が一代で築いたもの、秀吉の死後どうなろうがかまわない」と言い放ち、その場を立ち去る。

北政所の賢さ・優しさ・意地をこれ以上に簡潔にわかりやすく具体的に表現した場面を、後にも先にも知りません。
これこそ優れた脚本というもので、こういうエピソードや場面を考え出すのが脚本家のお仕事なんだなーとしみじみ思う。
「あなたは賢い」と他の登場人物に賞賛させるのでなく。

近藤正臣演じる石田三成も歴代大河ドラマ屈指だけど、小栗旬が演じる「黄金の日日」版石田三成も見てみたい。
近藤正臣を凌げるかどうかはともかくとして、実力のある若手にちゃんとした脚本で役を演じさせてあげたいな、と思うのです。

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2009年11月29日 (日)

スペシャルドラマ 坂の上の雲

いよいよというか、ようやく放送開始。
ナレーションに司馬遼太郎の原文をふんだんに入れて、原作の語り口の雰囲気を出しているのがいい。
映像や俳優の演技が良いだろう、というのは予告等を見て予想できていたけれど、全体的に期待以上。
「司馬遼太郎を好きで、リスペクトしている人たちが作ったドラマだ」と感じることができて、それがなによりうれしい。
日曜日の8時台に、司馬遼太郎原作のドラマを安心感と満足感をもって味わえるのは「翔ぶが如く」以来のことです。


幼い淳(真之)のやんちゃぶり、公私のけじめに厳しい秋山父のとぼけた生真面目さ、好古の質実剛健振りなど、原作のそこはかとないユーモアを感じさせる場面がきちんと描かれ、10歳の好古が父に「お豆腐ほどもお金をこしらえてあげるぞな」という場面に追加された「豆腐とは」「このくらい」というやりとりがおかしい。

なんといっても秀逸だったのが、高橋是清のエピソード。
原作にはないけれど、ドラマ的脚色というのは、こういうのをいうのよねーという素晴らしい例。
いつも安心して見ていられるけど、特に好きかといわれるとそうでもないなーと思う西田敏行ですが、このドラマの高橋是清はとても良かった。
西田敏行が歴史上の人物を演じた中で一番好きかもしれない。

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2009年11月28日 (土)

のだめカンタービレ 完結

「のだめカンタービレ」が完結しました。
大体「こうあって欲しい」という方向で終わってくれました。


21巻で、のだめは千秋やソン・ルイと同じ地点に到達したのかなと思ったけど、まだ紆余曲折があって、ようやく音楽家として歩む決意に至ってグラン・フィナーレ。
そして、今度こそ本当のスタートラインに立った、と。

日本編の“のだめ”はハチャメチャな面白いヒロインとして楽しんでいたけど、パリ編に入ってからは、並外れた才能がありながら、性格的な問題(自分と向き合うのが苦手・頭ごなしに叱られるのが大嫌い・イヤなことからは逃げるetc.)を抱えている女の子が、どう折り合いをつけて成長していくのかに興味の方向が変わってきた。
なので、作者が千秋とのコンチェルトでめでたしめでたしにしたり、巨匠との共演で「上がり」にせずに、音楽家として歩みを続けていくために、いかにモチベーションを維持するかという問題をきちんと描いてくれて満足です。

物語が展開する中で、千秋、ルイ、ターニャ、フランク、ユンロン、黒木君には成長を感じたけど、のだめ自身は音楽面の成長は目覚しいものの精神的な成長をあまり感じないので、周囲を成長させる触媒のような存在なのかもしれない、と思ったりする。
のだめの性格と言動があまり好きじゃない自分に気づいたりもしました(笑)。
非常に興味深いキャラクターではあるんだけど。

のだめが音大に入って初めて一曲弾きとおした「二台のピアノのためのソナタ」で終わったのは、ちょっと意外で、でも感慨深い締めかただった。

映画はDVDでもいいかと思ったけど、のだめの音源がラン・ランと聞いて、やっぱり映画館で見ようかと思案中。

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2009年11月26日 (木)

大河ドラマのナレーション

途中から見ていないんでナンなんですけど、「天地人」。
「名作大河じゃなくてもいいから、習慣で視聴していられるレベルの維持を」と願ったけれど叶わず、兼続のしたり顔の説教の連続に耐えられなくて脱落。
なぜか視聴率は良かったものの、「篤姫」のように不当に高く評価されていないことだけが救い。

川中島以降の上杉家のことは知らないから、このドラマでわかるといいなと思ったけれど、直江兼続が何を志し、何を成し遂げ、何を成し遂げられなかった人なのか、ついにわからずじまい。
これは大河ドラマを視聴していて始めての経験。
「功名が辻」も「篤姫」も大嫌いだけど、さすがに主人公が何をしたのかが理解できないということはなかった。
理解はできたけど、脚本家の願望丸出しの主張と原作の改悪が不愉快で怒っていたのが、この2作品。
「天地人」は、しつこく「愛」を連呼していたのはわかるけど、その「愛」さえ意味不明なドラマであった。

ところで、「天地人」は宮本信子のもったりしたナレーションの意図もよくわからなかった。
宮本信子の素のしゃべりは別にもったりなどしていないので、あれは「こんなふうにお願いします」と言われたものと思われるけど、どういう効果を狙ったんでしょーか。

武田信玄・信長・徳川慶喜などナレーションに奇を衒った作品は、好き嫌いはともかくとしてナレーションの狙いみたいなものは理解できた。
第一部が草野大悟、第二部で田中裕子が語りを担当した「翔ぶが如く」は、薩摩弁を語りに取り入れたことで薩摩の雰囲気をうちだせたし、同じく幕末を舞台にした司馬遼太郎の原作の大河ドラマ「花神」との違いも出せたりと、語りに工夫した作品では最も成功した例だと思う。

昨年の「篤姫」の奈良岡朋子は、主人公をヨイショするためには局アナではなく女優の技量を必要としたものと解釈していて、「天地人」も同じ理由か・・・とも考えたけど、「天地人」の語りは兼続を特にヨイショしているわけでもないのですね。
それと奈良岡朋子の場合、内容は「日本を救うことになる」云々とひどかったけど、声や調子は落ち着いていたので、「天地人」のもったりした語りとはちょっと違う。

CS放送中の「黄金の日日」のナレーションはアナウンサーが担当しているけど、状況や歴史的背景の説明が小気味よく、「これは時代劇ではなく大河ドラマなのだ」と思わせてくれる。
創作部分の多いドラマだからこそアナウンサーによる語りが活きて、効果的。

もしも「天地人」の語りがアナウンサーだったら・・・と想像してみると、ほとんど歴史的背景の説明にもなっていないわけで、それをごまかすためには宮本信子の起用及びあの口調は正解だったのかもしれない、と勝手に納得。

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2009年11月24日 (火)

主役≠一番目立つ人

「ゼロの焦点」の感想を見ていて、ちょっと気になったことなど。

・ヒロインなのに目立たない、喰われている
広末涼子が目立っていたかといわれれば目立ってはいなかったし、中谷美紀のほうが迫力があって強烈な印象だった。
なので「あー、中谷美紀が主役を喰ってたねー」くらいのノリであれば同意に吝かではないのだけど、嵩にかかって力説することでもあるまい、とも思う。
「ゼロの焦点」においては、禎子の存在なしには物語が始まらないという点で確として主人公といえる。
で、一番目立ったり、一番強かったり、一番出番が多いのが主人公とは限らないと思うんですよね。
主人公は物語の核ではあるけれど、一番目立つかどうかは別。
もちろん、「一番目立つことが多いポジション」ではあるのですが。

それと、昔は知らず、今の俳優は映画やドラマの中で一番目立とうとして演技をしているわけじゃないと思う。というか、そうであって欲しい。
どんな役も物語の一ピースであり、それが魅力的に機能するのが役者冥利というものじゃなかろうか。
なかには大嵐浩太郎(from 笑う犬の冒険)みたいな俳優もいるかもしれないけど、ギャグ以外では見たいと思わないな。
「パイレーツ・オブ・カリビアン」の主人公はジャック・スパロウではなくウィル・ターナーだし、「王の帰還」で活躍したのはサムでも主人公はフロド。


「主役=一番目立つ存在」という認識が高じると、近年の大河ドラマのように主人公がそこらじゅうにしゃしゃり出ることになるので、「感覚は人それぞれ」で片付けられない危機感を持ってしまう。

・衣装とメイク
スパッツ風のパンツ、女優陣の眉の描き方に対して疑問を呈しているブログを見かけたのだけど、当時を知っている世代ではなく、ずっと若い世代の人と思われる。
昭和32年は西暦にすると1957年で、オードリー・ヘップバーン主演の「麗しのサブリナ」公開後なので、1957年当時の流行の先端を行く女性がサブリナパンツを身につけているのは時代設定として合っている。
また、1950年代の女優の化粧は今と比較的似ていて、少なくとも1930~40年代の弧を描いた細眉、アイメイクが濃くなる1960~70年代に比べると、はるかに隔たりは少ない。
なので「今風のメイクだから変」という感想はちょっと的外れ。
時代考証には気を使っている映画だし、中途半端な知識や思い込みで疑問を持つよりは、素直に見たほうがいいと思う。

・鵜原憲一の肩の傷
映画冒頭のお見合いの場面で「機銃掃射で・・・」という話をしていたので、その時に負った傷と思われる。
「憲一が戦争の傷跡を心にも体にも残している」ことをビジュアルで表現したのだと解釈した。

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広末涼子にやたら辛口なレビューもちらほら見かけたけど、なかにはアンチ広末と思しき意見もあって、映画館に足を運ぶかどうかを出演者で決めることの多い私としては「嫌いな女優が出る映画を何故見に行くんだろう?」と素朴な疑問。
(テレビで見るのはまた別)
広末涼子については、そんなに(例えば綾瀬はるかほどには)好きなわけではないけれど、「秘密」で娘と「娘の体を借りた母親」の仕草の違いを演じ分けていたので、求められればそういう演技がしっかりできる女優さん、という認識です。

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2009年11月19日 (木)

ゼロの焦点

西島秀俊目当ての鑑賞ですが、それ以外も心に引っかかるものがあった。
ミステリー小説を読むのは好きだけど、推理をすることはほとんどなく、謎解きに絡めて描かれる登場人物のキャラクターとか心理描写に興味がある。
テレビシリーズのポワロやホームズシリーズを見るのは、セットと衣装が主な目的だし。
なので、この映画も犯人探しをするつもりはさらさらなく、人間ドラマとして楽しみました。

冬の金沢の街並み、上野駅の雑踏、衣装、火鉢の炭で煙草に火をつける仕草、柳行李など、昭和30年代が細部まで丁寧に再現。
社長夫人役の中谷美紀の演技が凄艶だったけど、広末涼子、木村多江もそれぞれ適材適所の好演。
料理の鉄人以外で、こんなにケレンのある鹿賀丈史を初めて見た(笑)。
「妻を深く愛しながら、素振りに出さない」室田儀作はレット・バトラーのようでもあるけど、多少は意識した脚本なんだろうか。
本田博太郎、モロ師岡、左時枝など、出番はそんなに多くない脇役の人たちも印象的。

劇中、中谷美紀演じる佐知子がスパッツとフラットシューズを身につけている場面があって、一瞬時代背景とそぐわないように感じたけど、「あ、サブリナパンツなのね」と納得。
「ゼロの焦点」の舞台となった時代は「麗しのサブリナ」が公開された後だったのかと思って、それも妙に感慨深かった。


終戦後の混乱や当時の価値観を知っているかどうかで、事件の動機だけでなく、失踪前の夫の行動に対する感じ方、捉え方が大きく変わってくる話だと思う。

大学を出ている佐知子は、戦争がなければ売春をすることはなかったし、極貧の出の久子よりも過去を隠したいという念は強かっただろうと思う。
現代は遊ぶ金欲しさに援助交際する高校生がいることを思うと、隔世の感があるけれど。
佐知子の殺意は、世間に対してよりも、自分の中で過去を抹消したいという思いから芽生えたのかな、なんてことを思ったりした。

心の中に敗戦の傷を抱えている鵜原憲一は、その実しっかりした兄がいるし、見合いの世話をするような知人もいて、それなりの社会的地位を有している。
鵜原憲一にとって禎子との結婚は、ただ若い女に心変わりしたということではなく、戦争がなければ本来いたはずの世界に立ち戻ることも意味していたのかなとも思った。
もしも久子を妻にしようと考えたとしても、周囲の反対は必至だし、世間からの孤立を余儀なくされたかもしれず、実現は困難だし。
禎子に出会う前の彼に罪があるとすれば、保身を図りつつ、安らぎも得ようとしたことだけど、無下には責められない気もした。


なお、この映画の西島秀俊はとても好き。
身も蓋もなく言えば「貧しい境遇の恋人を捨てて若い娘と結婚する男」という役どころなので、女たらしの西島秀俊を見るのは望むところであるものの、まんま身も蓋もない描き方になるとイヤだなと思っていた。
が、映画では鵜原憲一という人物の背景とか痛みがきちんと描かれていたし、二人の女性に愛されるのは「さもありなん」で、これは西島秀俊のハマリ役といっていいかもしれない。
役に合った年齢のイケメン俳優を適当にキャスティングしたわけじゃなかった。
もしも、鵜原憲一を他の俳優が演じたとしたら、「西島秀俊が演じればよかったのに」と残念に思ったかもしれない。
「丘を越えて」の戦前のモダンボーイよりはだいぶん地味だけど、昭和30年代の衣装も似合ってる。
ほんの少ししか映らなかったけどソフト帽が似合いますね。
それと、わき腹の筋肉がすごかった。


1961年版の映画で鵜原憲一を演じたのが南原宏治。
悪役のイメージが強い俳優だし、西島版を見てしまうと、どんな鵜原憲一だったのか想像もつかない。

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2009年11月 9日 (月)

そうなの、心って重いの

安藤美姫がNHK杯優勝&グランプリファイナル出場決定。
ひと足早く五輪代表選考のスタートラインに立てて、まずは良かった。

消化不良な内容で、選手も不本意だったようだけど、そういう状態でも振付の形が崩れなかったのは日頃のトレーニングの賜物で、成長の証か。
以前「日本の選手は不調な時にジャンプ以外の演技の質をどこまで維持できるかが課題」みたいなことを書いたことがあるけれど、無意識でも動けるくらいに身体に植え付ける練習をしたのだとしたら、モロゾフはほんとに有能なコーチですね。
それにしても、「身体に型を叩き込む」というのは日本の伝統芸能のお家芸だと思うのに、なぜかスポーツの分野では精神論がまかりとおっているのが不思議です。

EXの「夜の女王」は気迫の演技で素晴らしかった。
ただ、エキシビションにも生真面目なプログラムを用意する日本人選手が多い中、安藤美姫のEXは遊び心と余裕があるところが好きなので、真剣勝負のEXを見るのは複雑な気分でもありました。
エキシビションをリラックスして滑るためにも、次の試合は頑張ってほしい。

エキシビション放送後のNHKのスポーツニュースのインタビューには、妙にハラハラしてしまった。
英語のインタビューはまったく危なげがないのに、なぜだろう。
質問が要領を得なかったというのもあるけど、母国語なだけに微妙なニュアンスを伝えようとしすぎるのかもしれない、なんてことを思ったり。
自分の感情を分析して、言葉にまとめるのがまだまだ不得手な感じ。
その点は中野友加里が優れていて好感を持っているけれど、その中野の理知的な面をもってしても試合に臨む時の緊張感を制御できなかったりするのだから、メンタルってほんとうに難しい。
で、ふと「ハウルの動く城」の「そうなの、心って重いの」という台詞を思い出した。
重いし厄介だけど、でも、だからこそ大事なんだよね。

「四年前と違う点は?」という質問に対して「プライベートが・・・」と意味深に聞こえることを言っていたけど、これって単に「マスメディアの突撃がないから落ち着いている」と言いたいけど、当のマスメディア相手に言うのはマズイと思ってごまかした、とかいうんじゃないの?と思ったりした。
それくらいズケズケ言ってもいいと思うけども。


☆ジェレミー・アボットのSP「A day in the life」は好きなプログラム。
曲をあまりつぎはぎせずに原曲に近いまま振付けているところが好き。


追記:
わりに早い時期から「型(ポジション)やスキルを身体に叩き込む」ということを実践し、成功をおさめてきたのが浅田選手なのかなと思う。
高い難度の技術を意識せずにこなせることで、比較的メンタルの波に左右されることが少なく、安定した成績を上げることができたのかな、と。
ただ、高難度の技術を早いうちから無意識にこなせてしまったことが、その後の成長を阻んでいる、ともいえそう。
いかに高い技術を持っているとはいっても、他の選手も努力してきているから、安穏としていては追い抜かれてしまうわけで、時には迷ったり、自信をなくして自分を見つめなおす経験も、成長の過程においては必要なんだと思う。

追いつ追われつな状況(この場合、追われつ追いつ?)を見ていると、漫画「アラベスク」の「見える天才・見えない天才」という話を思い出す。
要求されたことを一回でうまく出来るけどそれ以上は伸びない天才と、一回ではできないけれど、何度も繰り返すうちに要求以上のものが出来るようになる天才がいる・・・というもの。

---
浅田選手の五輪代表が決まっているかのような報道がちらほら出てきて、スケート連盟の役員までがそれを匂わせる発言をしているけど、相変わらずいい加減な組織だなーと思う。
実績のある選手に内定を出すこと自体はありだと思うのです。
スケート連盟にはその裁量はある。
ただし、その場合、公平さ云々で不満や批判は当然出るだろうし、五輪の成績次第では責任を問われることになるだろうけど。
それを避けるために選考基準を発表したのなら、建前だろうがなんだろうが、関係者は余計な発言は慎むべき。
少なくとも全日本選手権までは。
建前も守れずに情報をダダ漏れするのでは、組織として終わっている。

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2009年11月 4日 (水)

NHK杯直前特集

NHK杯前ということで、スポーツニュースのNHK杯特集と特集番組を見た。
VTRの使い回しはお約束として、日曜日のスポーツニュースでは安藤美姫紹介で「トリノの後は不振が続き・・・」というナレーションが流れて「2007年の世界選手権優勝は無視かよ」と思ったのだけど、翌日の特集番組では「トリノの後、好不調の波が・・・」に変っていた。
これならばよし。

安藤美姫、高橋大輔の現在と過去のスピンや動きの違いを並べてわかり易く見せてくれて、その点は大満足です。
ただ、安藤美姫が4回転への執着から脱したのは確かに最近だろうけど、世界選手権は4回転なしで優勝しているのだから、「4回転へのこだわりを捨てた」という部分をあまりに強調することには違和感がある。
自分たちが書いたシナリオにあてはめようとするのが、毎度のことながら非常に不愉快。

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2009年11月 3日 (火)

善悪二元論で歴史を描くことの愚

しばらく前から視聴をやめているので、「天地人」は私にとって過去の話なのだけど、こちらのブログに掲載されていた天地人トークショーにおける内藤愼介プロデューサーの発言には、憤りを覚えると共に大河ドラマの将来に危惧を感じた。
気になったのはこの発言。

内藤「いろいろと描こうとすると、伊達政宗のときも最上義光を描いて、あんな原田芳雄がやってしまったことによって、最上の殿様があんなになってしまったじゃないか。
二度とああいうやり方をするな!と言われてしまった。上杉・直江兼続と向き合うとなると
同じ扱いをしなきゃいけないかな。それで、みなさんの熱い想いを聞きますと・・・
おかしな描き方をすると、また怒られると思って怖くて台本から外した。」


トークショーだから口がすべったにしても「あんな原田芳雄」とは失礼な言い草だし、「独眼竜政宗」の最上義光に批判があったという話は初耳です。
「戦乱の世を生き抜くための知略を持った喰えない人物で、妹と娘への愛情は厚い人」という印象だったし、批判を受けるような描き方とはまったく感じなかったし、あれで気分を害したのは一部の熱狂的ファンだけじゃないんだろうか。
これに限らず熱狂的ファンなんてみんな極端なもので、そういう声だけ大きい極端な意見を気にしていたら実在の人物が登場するドラマなど作れないだろう。
そして、「天地人」も上杉・直江と向き合うには同じ扱いで描かなくてならない・・・と言っているところをみると、このプロデューサーは「主人公=正義、敵対する人=悪者」と認識しているもよう。
そういう単純な認識しか持てない時点で、最上云々を抜きにしても、この内藤という人は根本的にドラマのプロデュースには向いてないと思う。
NHKは人材不足なのか?

追記:
「『天地人』のスタッフは、過去の名作といわれる大河ドラマを見て反省すべし」と思っていたけど、余人は知らず、プロデューサーは見ても無駄になりそう。
昔の大河ドラマの面白さがわからないから、「天地人」をあんなにしてしまったんだろうと深く納得。
こんなことで納得するのは虚しいけれど。


原田芳雄の最上義光で怒る人がいるのなら、去年の女々しい小松帯刀や「新選組!」のカマキリ将軍など、激怒した子孫や関係者がいそうなものだけど、抗議があったという話は寡聞にして聞かない(小松帯刀に関しては抗議があってもいいと思うけど)。
最上義光のファンはよほど熱狂的なんでしょーか。

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2009年11月 1日 (日)

ブログの用途

某スケートコーチの暴言がブログに書かれた件について、暴言そのものよりもブログの使い方についていろいろと思うところがありました。

暴言が事実だとしたら非常識で不適切な内容だし、自分がその場にいたら確実に喧嘩になると思う。
ただ、どんなに不愉快であっても、プライベートの酒の席の出来事であり、個人的な喧嘩の範疇であることもまたたしか。
それを実名まで挙げてブログに載せるのは、ブログのあり方として疑問を感じる。
「他人の酒の席の振る舞いをブログに書く」というのは、明白な禁止事項ではないけれど、暗黙のうちに「やらないほうがいいこと」として認識されているように思う。
それと、そのスケートコーチが有名人ではなく、無名の誰かだったら同じことをしたかどうか、というのも疑問だし。
無名の酔っ払いがどんなに過激な暴言吐こうが「誰それ?」で、実名を挙げても反響は少ないけれど、それでも実名で書いただろうか?
友だちに愚痴を言っておしまいだったんじゃないだろうか。
(ブログの記事が事実として)余計なトラブルを避けるためにも有名人は特に言動には気をつけるべきだけど、ブログを書く側にも節度があらまほしいと、自戒を込めて思う。
少なくとも、酔っ払いの言動をブログで吹聴するような野暮な真似はしたくないものである。
喧嘩はその場で済ませるのが粋だし、それでは気がおさまらないのだとしても、友人・知人などの「特定少数」にこぼすべきこと。


この件をネット経由で知って関連団体会長の事務所に問い合わせの電話を入れた、と自らのブログに書いている人がいたけど、これも頭が痛いことである。
ソース元のブログ主が関連団体への通報が適切だと思ったのなら、自分でそうしていたはず。
それをしなかったということは、ブログ主に個人的な喧嘩であるという認識があった、ということだと思うんですけどね。
それがわからないとは。
一般人がブログに書いたことで問い合わせてこられても、事務所としてはやりようがないだろうし、また、そんなことでいちいち動くような軽率な事務所でも困る。

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