気持ちと言葉と家族
GPFの男子の優勝者パトリック・チャンの演技を見るにつけ、スケーティングは文句なしに美しく、体で表現する技術は高いのに、退屈だなーと感じてしまう。
2008年くらいまでの浅田選手の演技についても同じような感想を持っていて、叙情性はともかく技術は高いと思っていたので、滑る姿勢やスケーティングなどを見直しているという今の事態は、非ファンとしてもかなり意外。
自身の不調について「気持ちの問題」とコメントしているとのことで、元々身体能力は高い選手のことで(基本どおりではなくても)難しいことが出来ていたわけだから、気持ちの問題といえばそうなのかもしれない。
ただ、彼女の語彙の乏しさや「愛の夢」に犬を持ち出すイメージの貧困さを見るに、「気持ちというもの」をどのくらい理解しているのかはなはだ疑問だったりもする。
もしも不調の原因が本当に気持ちの問題なのなら、彼女に必要なのはスケートの練習よりも自分の思考や感情を分析し、的確に言語化する訓練ということになるし。
言葉だけでは伝えられないことはあるし、言葉がすべてではないけれど、自分の気持ちを言い表す語彙を知っているといないとでは気持ちのありようは違ってくる。
自分の気持ちをうまく言葉にできないともどかしいし、ぴったりはまる言葉を見つけた時は咽喉のつかえがとれたような気になったりもする。
逆に、言語化しないでいると失われてしまうものもあるし。
「ウォーター」を理解する前のヘレン・ケラーにも人間らしい感情がなかったわけじゃないだろうけど、言葉の理解なしには自分の感情を伝えることができなかったわけだから。
大河ドラマ「花の乱」がドラマとしてはいまひとつの印象だったものの、萬屋錦之介と対峙した場面で迫力負けしなかった野村萬斎の存在感は大いに目を惹かれたものだった。
で、同じ狂言師ということで「北条時宗」の和泉元彌もそれなりに期待感を抱いて見始めたけれど、演技の下手さに失望して脱落。
どこを下手と思ったかというと、「困った場面で困った顔をする」という引き出しのなさだったのだけど、それは演技以前に感情表現の引き出しが少なかったせいなんじゃないかと思う。
今にして思うと。
和泉元彌というと当時は結婚前で母親と姉がもれなく付き添っていて、ちょうど浅田選手と似たような状況だったし、師匠につかずに自主練習というのも共通点。
肉親以外との接点があまりに少ないと、感情の引き出しが乏しくなるものなのかなーと思ったりする。
たった2人、というか2家族の例ではあるけれど、他にそういう家族をみないし。
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