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2011年1月30日 (日)

白夜行(映画)

監督が深川栄洋ということで映画館に行くことを決めました。
深川監督の「真木栗ノ穴」はスクリーンの隅々まで神経の行き届いた映像だったので、「白夜行」にもそれを期待して。
「川向こう」の殺伐とした家並み、陰鬱な桐原家と広壮で明るい篠原家の対比とか、電話ボックスの変化で20年の移り変わりがわかったり、聖子ちゃんカットやバブルの頃の女性の服など、監督のこだわりを感じた。
「ゼロの焦点」で、昭和30年代の再現に時代考証が必要になったかと思ったけど、昭和50年代も本気で再現しようとすると神経使いそう。

主人公たちの描写は原作に感じたイメージどおり。
堀北真希は雪穂の冷たい美しさに合っているし、亮司役の高良健吾も坦々と犯罪に手を染めながら、時折見せる表情の変化が印象的で、特に最後の不敵な、でも儚げな笑顔には不覚にも涙がでてしまった。
主人公二人の子ども時代を演じた子役たちも良かったです。

主役以外のキャストについては、ドラマに比べてちょっと見劣りするかなと思ったけど、映画を見終わるといずれも納得のいくキャスティングだと思った。
ハンサムで育ちが良くて頭も切れる篠塚一成は、ドラマ版の柏原崇が決定版といってもいいくらいだったので、それに比べると姜暢雄は少し弱いと思ったのだけど、その「弱さ」が映画の設定の変更に活きていた。
一番懐疑的だったのが船越英一郎の笹垣なんだけど、これがまた意外と良かった。
映画の笹垣は、出世コースからは外れた老練な刑事であるとともに、ドラマ版で余貴美子が演じた図書館司書と、八千草薫が演じた唐沢礼子の役割を合わせて担っているようで、そこに「2時間ドラマの帝王」として培った「良い人オーラ」が大きくものをいった、という感じ。
映画の笹垣が亮司に対して示す思い入れは、かなり一方的なものなんだけど、淡々とした描写が続く中で見る側の気持ちをたぐりよせる効果があったんじゃないかと思う。


連続ドラマの時間があれば、事件を丹念に描くことはできるけど、10話にわたって「主人公たちの心理を描かない」という手法は無理がある。
それをやると、全編がほぼ犯罪ドキュメントみたいになってしまうし、お茶の間でドラマを見る層がついていけないだろうというのは素人にも想像できる。
NHKのような4話とか5話構成でも最終話まで引っ張ることは難しそう。
映画の尺なら外縁を描く手法が可能だけど、今度は原作の事件をすべて描こうとすると時間が足りないし、無理矢理詰め込んでは意味がない。

事件と脇役の設定は原作にほぼ忠実に、主人公の2人の「純愛」に焦点をあてて輪郭のなかを埋める形で映像にしたのがドラマ版ならば、原作の雰囲気や外枠のみを描く手法を尊重するために主人公以外の登場人物に変更を加えたり事件を省略して物語を構成したのが映画版。
「一見脈絡なくみえる犯罪の点を結ぶと純愛みたいなものが浮かんでくる」という原作ならではの世界観は、映画のほうが味わえる。


ただ、亮司が手を染める知的犯罪の数々が軒並みカットされていたのはちょっと残念だった。
原作を読んでいると、極めて優秀な頭脳の持ち主でもあった青年が、その能力を犯罪に費やしてしまう徒労感のようなものを感じるのだけど、映画でそのあたりが希薄になってしまったのは惜しいな、と。
亮司が持つダークな魅力は高良健吾の容姿と演技で十二分に伝わったけど。


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追記:
レビューを見ていて、「原作もドラマも未見」か「原作は読んだけどドラマは未見」の人は好きに感想を言ってくれてかまわないと思うけど、「ドラマだけ見てます」という人がドラマを基準に映画を批判するのはちょっと勘弁してほしい。
ドラマはドラマで好きだし、ドラマ単体で評価するのはよいけれど、根幹の部分で原作と大きく違っているのも事実。
「主人公の心理描写を敢えてしない」というのは原作の核ともいえる要素であり、そこを変えてしまっている以上、ドラマ版を「『白夜行』というもの」を語る場合の基準にするのは不適切だと思う。

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