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2011年3月 1日 (火)

主従関係

鎌倉武士団や戦国大名の主従関係を会社になぞらえるのを初めて見たのは永井路子の著書だった。
経営者は会社を守り発展させる責任があり、責任を果たしてくれる経営者の下で社員が仕事に励むけど、これは命と土地を保証してくれる主君には家臣が従うのと同じであるという解釈は、非常にわかりやすく納得のいくものだった。

司馬遼太郎は「箱根の坂」で「頼うだる人」という言葉を使っていたけど、「頼うだる人」と従う人たちの関係って、「ローマ人の物語」に出てきた「パトローネス」と「クリエンテスに共通するものがあるように思う。
ローマの時代から、形態や名称は変わろうとも、主君と家臣は持ちつ持たれつの関係。
もちろん、利害を超えた関係になることもあるけれど、基本的にはギブアンドテイクの関係で、それを無視してドラマを構築しようとするとおかしなことになってしまう。

主従関係を会社組織になぞらえて理解する、というのは今や暗黙の了解みたいなもので、過去の大河ドラマでも、いろいろと切り口は変えながらも、これについては踏襲してきたように思う。
やっぱりわかりやすいし。
で、別に定説を変えちゃいけないわけではなく、流動的でもよいんだけれど、敢えて覆そうというのなら、より説得力のある説を出してくれないと視聴者は納得できないし、納得できないと物語を楽しめない。
せっかく「経営者と社員」説で納得していたものを、「篤姫」では原作にもなかった「徳川の心」だの「家族愛」だので幕府及び徳川家という大組織を矮小化したので、こりゃ変だぞと思ったのだけど、どうも、大名家の運営と会社経営の喩えをこの脚本家は知らず、知っていても理解できなかったんじゃないか。
「江」に至っては、主従関係をおとぎ話の「わがままな王様とお妃様とお姫様と家来」みたいなイメージで捉えているフシがあるし。
なにかというと「Off his head!」と叫ぶ赤の女王みたいな。
でも、おとぎばなしのモデルになった王様たちだって、現実には家臣を統率するのに苦心していたはずなんだけど。

なお、「天地人」には「私が定説を変えてやるわっ」みたいな変な意気込みは感じなかったのが、脱力はしてもムカつかなかった理由。
「功名が辻」も山内家の主従関係の描き方はまともだった。
史実に余計な恋愛要素を絡めたり、何かと千代が出しゃばったりしたこと、それから反戦・厭戦を主張しすぎて低評価になったけど。


ところで、「江」をファンタジー大河と揶揄する声もあるけれど、ファンタジーを引き合いに出すのもやめてほしい。
海外のファンタジーを引き合いに出すまでもなく、日本には「十二国記」「守り人シリーズ」という優れたファンタジーがあるし、古くは御伽草子・聴耳草紙もある。
ファンタジーを馬鹿にするんじゃないデスよ、である。

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