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2012年1月

2012年1月31日 (火)

ギャップ

こんな記事が出たようですが。
荒川静香さん、持ち前の冷静さ発揮 「戯言戯画」の後日談

後日談というからには前があるわけですが、これがその記事
あまりに酷くて開いた口がふさがらなかったけど、慌てて「言い訳」しているのを見ると、「一石を投じた」というのでもなく、支持が得られると思って書いたものと思われる。

 東京五輪以来、スポーツ中継を情緒的に見る癖が染みついている。平たく言えば、そのほうが面白いからだ。一方で、スポーツ解説は基本的にクールであるべきだとも思う。なるほどなぁと、観戦の面白さを倍加させてくれるからだ。ともあれ、次の中継を待ちたい。(山根聡)


一般視聴者が情緒的に見るのはいいですよ。
でも、仮にも新聞記者が「情緒的に見る」ことを「そのほうが面白い」と肯定するのもどうかと思うし、100歩譲ってそれは見逃すにしても、冷静な解説を「KY」と揶揄していいわけがない。
各々がスポーツ中継を情緒的に見るのは個人の自由だけど、それをしなかった解説を貶めるのは意見の押しつけ。
「一方で、スポーツ解説は基本的にクールであるべきだとも思う。」なーんて、とってつけたみたいに・・・というか、とってつけて書いてるけど、それよりも荒川静香に謝罪したらどうだろうか。

だいたい、100%情緒的にうけとめても構わない音楽の分野でさえ、興味がとかく生い立ちや境遇に向かいすぎることには疑問を感じるのに(表現するためには技術も不可欠だから)、スポーツの、それも公式の競技会の解説が情緒的じゃないと批判するなんて本末転倒もよいところ。
NHK杯の不愉快な実況をしたアナウンサーといい、某選手に肩入れする人って、どうしてこう非常識なんだろうか。

これに限らず今ジャーナリスト及び志望者の感覚が変。
「大衆のレベル」を設定して、それに「合わせてやっている」つもりが、彼ら自身のレベルが実は下がっていて、そのことにまったく気づいていないと思える記事が多々あり。
別にジャーナリストが庶民の代表であるとも思っていないし、代表である必要も感じていないけど、ここまでズレていると、「マスゴミがこう書いているから、これは嘘だな」ということになってしまいかねない。
まさに狼少年。

「ハシズム」バッシングも、何と戦っているのかよくわからないし。
前回の選挙で民主党偏重の報道をしたことをきちんと総括してからでないと何を書いても信用できない。
マスゴミが批判しているのなら支持していいかもしれない、という気にさえなってくる。
危険なことですけどね、それも。

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2012年1月30日 (月)

夏歌と冬歌

SMAP×SMAPで稲垣潤一が「クリスマスキャロルの頃には」を歌っていて、NHK-BSの80's特集の総集編もこの曲だったから世間一般には代表曲ということになっているみたいだけど、ちょっと不服な私でいす。
他にもっと良い曲がたくさんあるじゃないかと。
「夏のクラクション」、「オーシャン・ブルー」、「一ダースの言い訳」、「1・2・3」シングルじゃないけど「愛のスーパーマジック」とか。
「愛のスーパーマジック」は安井かずみ&加藤和彦コンビの曲で、たぶん一番好き。
稲垣潤一は、私にとっては長らく夏歌の人だったので、「クリスマスソングの人」になっているのも意外。
「クリスマスキャロルの頃には」って、歌詞以外にXmassソングらしさを感じない曲だったりもするし。
「クリスマスイブ」や「最後のHOLY NIGHT」はイントロが始まると「あ、クリスマス~」と思うけど、そこまでじゃないというのか。
そういえば、最大のヒット曲が「クリスマス・イブ」であることは重々承知しつつ、山下達郎も夏のイメージです。

ただし、真面目な顔でコントをやってしまうところは好感度高し。

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the warm front, long sight

Amazonから「the warm front, long sight」と「moonset~優しくなれるまで」を取り寄せる。
昨年秋から何度Amazonのお世話になっていることでしょう。
時には、メール便が大きすぎて郵便受けが開かなくなったりもしつつ。

「moon set」は、「moon set~月のしずく」をカシオペアと共演している動画で1コーラスだけ歌っているのを見て、フルに聴きたくなって。
シンプルだけど奥行きを感じる曲♪
「the warm front, long sight」はカバー曲を聴きたかったのが購入理由。
ロコモーションをバリバリ歌っているのがなんだか新鮮。
川崎のロックユニットのMCで「反対されたけど昔からカバーを歌うのが好きで歌っていた」と洋楽カバーへの思い入れを話していたけど、このアルバムを聴くとほんとに好きなんだなーと思う。
んで、やっぱり上手いし。
この頃と「FEN」やロックユニットの曲目を比べると、カバーする曲の傾向に変化を感じる。
西海岸よりも東海岸、ブリティッシュが好きなので、個人的には好ましい変化。
・・・変化というよりも幅が広がったというべきか?

ところで、この「the warm front, long sight」やミニアルバムに収録されているカバー曲は、「日本の歌手がカバーした洋楽」プレイリストに入れたりしているんだけど、そこに「FEN」及び「FEN2」を入れるといまいちしっくりこない。
で、シセルのポップス・カバー、サラ・ブライトマン、ジョシュ・グローバン、スティングのSymphonicities、フレディ・マーキュリーのバルセロナ等、クラシカル・クロスオーバーの仲間たちと一緒にしてみたら、これがなかなか良かったです。

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2012年1月29日 (日)

日曜8時の幸せ

大河ドラマが普通に面白いというのは、なんてうれしくて心安らぐのでしょう。
周囲の人物が主人公の引き立て役じゃないという、それだけでも安心して見ていられるけど、どの登場人物もキャラが立っていて、役者も適材適所。キャスティングがはまっているし、さりげなく見せ場があるし。
今は、待賢門院璋子の邪気のない魔性の女っぷりが見どころ。
叔父子を璋子の口から言わせる脚本も良いけど、それを力まずにさらっと演じている壇れいがまた素晴らしい。
清盛が少しずつ成長しているのもいい。
といっても、別に主人公の挫折を描かなくてはいけないとは思わないし、「花神」の大村益次郎のように最初からフルスペックでもいっこうに構わないのですが、ちっとも優れているように見えない主人公が全肯定される展開にはほとほとウンザリ。
未熟な状態から描く以上は成長の過程を描いてほしく、「平清盛」はそこのところをしっかりおさえている。
今はスーパーマンの忠盛も、第一話では反抗的で未熟な若造だったし。
忠盛の成長の過程は描かれなかったけど(主人公じゃないし)、それは清盛と重ね合わせてねってことかなーと思いながら楽しんでいる。

「ちりとてちん」は見ていないけれど、脚本の藤本有紀はアガサ・クリスティを翻案した「名探偵赤富士鷹」が面白かった。
平岩弓枝の雅さとは違うけど、時代の雰囲気や世界観を表現する感覚の持ち主だと思う。
そうであってくれ。

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2012年1月28日 (土)

イベントなのか音楽なのか

「小澤征爾さんと、音楽について話をする」の中に、小澤征爾がビートルズのコンサートに行った話があって、「前座は楽しかったけど、ビートルズが出てきたら歓声しか聴こえなくてつまらなかった」そう。

で、1976年に出た日本のバンドのライブアルバムを聴いていたら、バラードの演奏中にキャーキャーと歓声が聞こえて、その当時はまだライブマナーが確立されていなかったのかなーと思う。
「憧れの人を生で見ることのできるイベント」だったのだろうと。
1980年代に入ると、さすがに「バラードは静かに聴く」というのが定着したみたいで、少なくとも私が行ったライブで、バラードで叫ぶ不埒モノはいなかった。
というか、アップテンポの曲でテンションが上がって・・・というのはまだしも(一万歩くらい譲ったら理解できる?)、バラードの演奏中に歓声を上げたくなるという心理はライブマナー以前によくわからない。

ビートルズ来日時の騒ぎはもっとすごかったんだろうけど、だとするとビートルズが「もうライブやらない」と言い出したのも無理はない。

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2012年1月23日 (月)

小澤征爾さんと、音楽について話をする

さくさく読めるんだけど、もったいなくてちょっとずつ読んでしまった。
美味しいお菓子を少しずつ口にするみたいに。

村上春樹は「1Q84」がまだ未読というか買ってもいない状態だけど(一応文庫待ち)、小説以外は読んでいて、なんだかんだと文章が好きなんだと思う。
音楽に譬えると、「最近、作る曲はちょっと好みじゃないけど、演奏はやっぱり上手いよねー」という感じ。

「ボクの音楽武者修行」には、「この人は文章で自分を語るのは得意じゃないんだな」と感じて、読み物としては今ひとつの印象だったけれど、村上春樹という優れたインタビュアを得ると、小澤征爾ってこんなに観察力が豊かで深い人なのかと、思う。
認識がすっかりあらたまってしまった。
岩城宏之とか中村紘子みたいに自分のいいたいことを自在に文章で表現できてしまう人たちは、逆にこういう化学反応みたいなことが起こりにくいかもしれない。
文章があまり得意じゃないからこそ実現したコラボとでもいうのか。

「先生」カラヤンと「レニー」バーンスタインの違い、マーラー、オペラなど全編興味深いですが、スイスのワークショップに村上春樹が参加したくだりも、それぞれの情景が目に見えるよう。
宮崎国際音楽祭やタングルウッドを映像で見たときのような感覚を文章から感じた。
スラーについての解釈が、人によって全然違うというのも面白かった。
「シドニー!」のサッカースタジアムのトイレのくだりでも思ったのだけど、着眼点・観察眼・分析力が優れているんですね。
(スタジアムやコンサートホールのトイレの数って、客にとっては切実な問題だけど、意外と見過ごされがち。)
スラーうんぬんも、その場にいたのが専門家だったら、気に留めなかったかもしれない。

村上春樹は終始「素人が専門家に話を聞く」というスタンスだけど、この場合の「素人」って、あくまでも「専門家ではない」というだけであって、クラシック音楽に対する造詣は極めて深く、だからこそ興味深い話を次々と引き出せる。
どこかに「知らないことが自分の強み」と言い放った脚本家がいたけど、中学生レベルの歴史の知識もないズブの素人の「知らない」じゃ話にならない。

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聞こえよがし

温浴施設でゆったりしたい時などは大きな声そのものをうるさく感じるけれど、さほど気にならないはずのガヤガヤ・ザワザワしたところでも気になる、というか、癇に障ることがあるのは何故だろうかと考えてみたら、たいてい「聞こえよがし」であることに思い当たる。
ただ声が大きいだけでなく、周囲に聞かせようとしているかのような。
意識しているのか無意識なのかは知らないけど、そのアピールが煩わしい。
サッカー観戦中に、後ろから聞こえてきた声にイラッとして、ふと考えてしまった。
コンサートのMCにいちいち反応して笑う人が気になるのも、その行為が何かのアピールに感じられるからかもしれない。

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2012年1月20日 (金)

またしてもとりとめもなく

☆テレビをながら視聴していたら小椋桂のコンサート告知が流れたんだけど、「透明感のある歌声」というナレーションに「ん?」と思ってしまった。
落ち着いた気持ちの良い声だけど、小椋桂を「透明感のある歌声」と言いきられるのはちょっと違和感があって、もっと相応しい形容詞があるんじゃないかと。
これに限らず声に関しては、音域と声質を混同しているのを見かけてモヤモヤすることが時々ある。
例外もあるのに、細い=高い、太い=低いと決めつけていたりとか。
そういえばスタレビ根本氏の声を「クリスタルボイス」と呼んでいるのを見たことがあるけど、これも違和感があった。
根本氏の声ってハスキーな音色のわりに響きはクリアなんだけど、それとクリスタルボイスはやっぱり違うだろーと心の中でツッコミ。


☆好きなアーティスト等がブレークするのは、ファンにとって必ずしも良いことばかりではない・・・というか、弊害もあることを経験上知っているので、「ほどほど」をキープしてくれるのが一番ありがたい。
コンサートのチケットが比較的とりやすくて、でも会場はぼちぼち埋まっているね、くらいな。
今はネットがあるから良いけれど、ちょっと前までは特電落ちとかいろいろありましたから。
少し前にも書いたけど、ライブ会場がやたらと大きいところになって、ライブがイベント化するのもうれしくない。
ワイヤーロープ芸とか自転車で会場をかけまわったりとか要らないし。
生の演奏を楽しみたいのです、ライブでは。
なので、やることをやって、ほどほどを維持してくれているありがたいアーティストに、上から目線でダメだしをしているのを見かけると、なにを求めているんだろう?と思ってしまう。
決して売れないほうが良いと言っているわけじゃなく、やりたいことが出来ているならじたばたしなくてもいいじゃん、と思うのです。
売らんがために焦って迷走するのを見るほうがよほど辛い。
スタレビが女装PVを出した時は、ほんとどうしようかと思ったし。

ウケ狙いに徹するならそれはそれでいいし、音楽寅さんで桑田佳祐がやった七変化みたいなパロディなら大歓迎(秋元順子に笑った)なんだけど、おっさんたちが女装してただ歌っているだけという笑いも毒もないプロモーションビデオを出した意図はいまだに謎。

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2012年1月15日 (日)

呼称

「平清盛」で朝廷を「王家」と呼ぶことが批判されているけど、批判をおしてまでこだわることでもないと思う一方、じゃあどう呼べばいいのかというと意外と適当な言葉が思いつかない。
「草燃える」で使用した「朝廷」は、武士政権と公家政権の対立、鎌倉と京都の距離感を描くには良かったけれど、平家は既存の組織の中で出世していくのだし、権力を握った段階で自らも朝廷の一部になるわけだから、「朝廷」と呼ぶのは違和感がある。
天皇家というのも武士が口語で使用していた言葉としては硬すぎるし、「院」「帝(もしくは主上)」では対象が限定されすぎる。
「王」に反発している人を納得させるには「皇家」あたりが良いのかなとも思うけど、「皇家」って香港映画でよく見るから、これはこれで違和感有り。
となると古代は天皇ではなく大王(おおきみ)だったのだし、「王家」でも良いかな、と思う。

それから、子ども時代の崇徳院を宮ではなく名前で呼んでいることについては、混乱を避けるためと解釈している。
平安末期はまだ「○○宮」という称号はなかったはずで(「兵部卿宮」「常陸宮」等は役職)、「東宮」とか「一の宮」ではわからない人が多いと考えたんでしょう。
昔は「帝(みかど)」だって耳慣れない言葉だったし、個人的には習うより慣れろだから東宮で良かったと思うけど。
細かいことを言えば、白河院も「法皇様」ではなく「院」のほうがしっくりきます。

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2012年1月11日 (水)

不可解な大河ドラマ批判

兵庫県知事が「平清盛」を酷評して、改善を申し入れると発言したことに対して批判が寄せられたようで、ホッとしている。


去年の大河は初回で見放したけど、それは私が同じ脚本家の「篤姫」に怒り心頭だったからであることは言うまでもない。
「篤姫」は、初回から「この姫が日本を救う」というトンでもナレーション、初対面の若者相手に死罪相当の犯罪を告白する口の軽い調所笑左エ門と、視聴放棄にはじゅうぶんな理由がありましたが、不安を抱えつつ様子見の姿勢をとったし、ヒロインが姫に見えないことについては、姫君教育とのコントラストを狙っているのだろうと前向きに解釈するくらいの寛大さはあった。
結局、見事に裏切られて「してやったり」顔を見るたびにイライラするようになったけど、スタート時点は宮崎あおいをそんなに嫌いじゃなかったし。
「天地人」も最初の頃は良い面を見ようとはしていた。

で、槍玉にあがった画面の汚さだけど、「龍馬伝」はさすがにちょっと汚しすぎだと思ったけど、「平清盛」は武家と公家の対比が狙いであることはあきらかで、宮中や貴族はちゃんと雅に描いている。
舞子射殺の場面でも、庭の白い砂と衛士の衣装の色が鮮やかだったり。
これで宮中がきれいじゃないとか、徳子入内のあたりでまだ汚いままとかなら、その段階で批判が起こるのはわかるけど、初回から酷評するのも、またその内容もどうかと思うし、「改善を申し入れる」って、これはもう噴飯モノ。
政治家がドラマの演出に口出しするな。
鑑賞眼がないうえに、政治家としての見識も欠けているようです。

抗議というなら、滋賀県(江)、新潟県(直江兼続と上杉家)、小松帯刀の子孫こそ抗議しても良い、むしろ抗議してくれと思ったけど。


それにしても、「平清盛」は初回の視聴率がふるわなかったというだけで条件反射みたいに批判記事が出たのに、去年の「江」は小谷落城あたりで既に失笑モノだったのに、内容の酷さに比して批判記事が少なかったのが非常に不思議。
批判記事が出たと思うと主演の上野樹里バッシングで、肝心なプロデューサーと脚本家はスルー。
後半に入ってからはボチボチ出始めたけど、大方は「脚本が酷いのは前提として」と脚本批判をせずに出演者を批判したりしていた。
なんだか不自然。
前提になるほど酷いのなら、脚本も批判しましょうよ。

一般週刊誌などのドラマ関連の記事って、書き手の文章からドラマそのものへの興味が感じられない。
どうも、書いている記者自身がドラマが面白いかつまらないかの判断がついていないような記事が多い。
興味が無いからわからないし、わからないから視聴率などの数字に頼った記事を書き、三文レビューを鵜呑みにするんじゃないかと。今井舞とか今井舞とか今井舞とか
一般週刊誌の場合、「わからないおじさん向け」というスタンスなのだろうけど、わかってない人がわからない人に向けて記事を書いてどうする。

録画機器が浸透した今、リアルタイムの視聴率からはドラマへの関心の強さは測れないと思う。
ほんとうに見たいドラマなら「録画してあとでゆっくり」ということも多いから、視聴率はあてにならない。
「家政婦のミタ」が高視聴率だったのは、「録画するほどではないけど展開が気になる」ドラマだったからだと思う。
で、そういうドラマがあってもいいけど、右へならえする必要はない。特に大河ドラマは。

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ステロタイプなのですね

ちょっと遅ればせながら、1月9日の朝日新聞の社説(成人の日に―尾崎豊を知っているか)の存在を知って、脱力。
おっさんのノスタルジー、ここに極まれり。

以前、OL委員会か何かで「上司が佐野元春の『ガラスのジェネレーション』を熱唱するのが許せない」という意見を見て、「それくらい大目に見てやろうよ」と思った寛大な私ですが、親戚の還暦間近なおじさんが尾崎豊の「卒業」を歌った時はさすがにイラッとした記憶がある。
何を甘ったれているんだ、と。
尾崎豊の歌う反抗には一切興味が無かったけど、最近になって歌の上手さとメロディの良さを再認識したところなので、音楽の才能に恵まれていたのに、なまじカリスマ性があったがために残念なことになったな、と思う。
時には音楽でメッセージを伝えるのも悪くないけれど、やはりなんといっても音楽は音楽としてあってほしく、そのためには才能が必要。
尾崎豊なら純粋に音楽で勝負することもできたはず。

なお、「ガラスのジェネレーション」の「つまらない大人にはなりたくない」を、多くの人は「大人=つまらない」と解釈しているようだけど、私は「いろいろいる大人の中で「つまらない大人」という種類にはなりたくない」というふうに解釈していて、佐野元春の意図がどこにあるのかはわからないけど、それでいいと勝手に思っている。

自分の過去の時代を肯定するのも時には必要なことかもしれないけど、新しい世代に送るのなら、やはり魯迅の「故郷」の最後の一節かな。

せめて彼らだけは、わたしと違って、互いに隔絶することのないように…とはいっても、彼らが一つ心でいたいがために、わたしのように、無駄の積み重ねで魂をすり減らす生活をともにすることは願わない。また閏土のように、打ちひしがれて心がまひする生活をともにすることも願わない。また他の人のように、やけを起こしてのほうずに走る生活をともにすることも願わない。希望をいえば、彼らは新しい生活をもたなくてはならない。わたしたちの経験しなかった新しい生活を。


「わたしたちの経験しなかった新しい生活」を素直に肯定できるかどうかはともかくとして、心構えだけは、せめて。
今は「"大人なんてつまらない" なんて つまらない話さ」(by 杉山清貴)かな。

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2012年1月 9日 (月)

平清盛 第一回

大河ドラマ「平清盛」の第一回を視聴。
(坂の上の雲を除いて)大河らしい大河を見るのは久しぶり。
「龍馬伝」は、演出と役者の演技は良かったけど、口から出る台詞がヘナチョコだったので・・・。

清盛の出生にまつわる経緯とか、ナレーションなど、ツッコミどころがないわけではなく、法皇の住まいの庭で射殺なんて、当時の貴族たちが血の穢れを忌み嫌ったことからするとありえないけど、それが気にならないくらいに全体が良かった。
中井貴一の忠盛はもとより、伊東四郎の白河法皇、三上博史の鳥羽天皇、壇れいの待賢門院と保元の乱のキーパーソンたちがキャラが立っていて素晴らしい。
そして、意外と良かったのが松田聖子の祇園女御。
声が良いのは得ですね。
一回目限りで退場だけど、忠盛に武士の覚悟を教える中村敦夫の正盛、吹石一恵の舞子も印象的。
泥(コーンスターチ?)にまみれた武士の家と美しいけれど退廃的な宮中の対比も良かった。

最初はアレッと思った岡田将生のナレーションも慣れてきたら気にならなくなり、特に「見くびられていたのは源氏ではなく為義ではないかと思う」というくだりは、「クールな現代っ子が古い時代の人について素でツッコむ」みたいでクスっと笑ってしまった。

初回から数回は良かったけど、主人公が成人してからいまいちだった「義経」の例はあるけれど、軍略の天才ではあっても政治オンチだった義経を主人公に据えた時点で大河ドラマにするうえでちょっとハードルが高いかなと思っていた。
「義経」放送時にも清盛を主人公にすべきという声はあったし、その清盛が主人公なわけだからエピソードには事欠かない。
今回は鳥羽院と崇徳院の確執の種からていねいに描いているし、これはほんとうに期待大。
「描くべきところを描かないこと」が過去数年のダメ大河への不満でもあったから。
直江兼続が主人公なのに最上と前田慶次を出さない、とかありましたね。

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2012年1月 8日 (日)

N氏とS氏

BS-TBSでスタレビのライブのダイジェストを見た。
「木蘭の涙」のバンドアレンジバージョンを本当に久しぶりに聴いて、やっぱり好きだなと思う。
声量や歌い方の不満がすべて解消されたわけではないけど、バンドアレンジの骨太な声の出し方が好き。
アコースティックアレンジの時は柔らかく出そうとしているんだろうけど、なんか違うと思うんである。
「今夜だけきっと」は、杉山清貴とデュエットした薬師寺ライブがここ15年で最高だと再認識。
要さんがボーカルをとっているパートも、低音部に杉山清貴の声があるとものすごく安定して聴こえる。

で、相変わらずヘビーローテーションで杉山清貴を聴いていますが、オメガトライブよりもソロの曲のほうが微妙に歌いやすそうに聴こえるので、やっぱり自分の曲のほうが声を出しやすいんだなと思ったり。
といっても、一概に歌いにくいのがよくないというのでなく、歌手生活のスタート時に他人の作った曲(それも極めてハイクォリティの)を歌ったことは、可能性を広げるためには大きな経験だっただろう、ということが言いたいのですが。


某掲示板ではス☆レビさんの新旧ファンが昔の曲と今の曲のどっちが良いかで議論していたのを見ていて、初代キーボード脱退の時も「喧々囂々というか、侃々諤々というか」な状況だったなーと、ちょっと遠い目。
私は打ち込みよりも生音のほうが好きなので、4人になった時にライブ寄りのスタンスが強まったことを、その時は手放しで歓迎したんだけど、その後「ライブのためのアルバム」に傾きすぎたことで考えに変化が。
レコーディング技術の粋を極めて作ったアルバムがあってもいいかな、と。
「ライブでどう演奏するのか見てやろうじゃないの」みたいな。
「ボヘミアン・ラプソディ」みたいに完全再現不可の曲があってもいいわけだし。

プロの作曲家はこの限りではないけれど、いわゆるシンガーソングライター--「自分の曲を自分で歌う」スタンスのミュージシャン--において、その歌唱力は作る曲に影響する、ということは言えるんじゃないかと思う。
自分が出しにくい音域、歌いにくい節回しは無意識に避けようとするだろうから、声の劣化は作る曲にも影響が出るんじゃないか。
もともとが凄い声の持ち主だったなら、なおのこと影響は大きいだろうと。
タイプの違う曲を書く三谷さんの存在は、ボーカリスト根本要の可能性を押し広げただけでなく、ソングライター根本要にとっても刺激になっていたのかもしれない。

漫画「テレプシコーラ」に「振付師は自分が踊れる以上のものは振付けられない」という言葉が出てきて、ジャンルの違いはあるけれど、音楽にもあてはまると思うのです。
リストだって自分で演奏できなかったら、超絶技巧曲を作らなかったかもしれないし。


・・・というようなことをつらつらと考えたりしていたので、某掲示板で「杉山清貴は自分の声質や音域を軽視した曲を作る」云々という、やや批判的なスタンスの意見を見た時は、可能性を広げるという観点からすれば、それってむしろ良いことじゃん、と思ったんでした。
歌い手としても、曲の作り手としても。
そもそも、歌いこなしているんだから軽視していることにはならないけど。


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(音楽の)ファンって、好みもスタンスも多種多様でいろんな人がいるけど、基本的な関心事はシングル及びアルバムの内容とライブの満足度に尽きる、と思う。
甘口だったり辛口だったりと切り口も意見もいろいろだけど。
そんな中に、曲の善し悪しもしくは好き嫌い、声の調子、ライブのあれこれ等には一切触れず、ひたすら売り上げとか人脈とかについて語っているのを見かけると異質だなと思う。
ファンがマーケティング的切り口で語ることもあるけれど、それとは明らかに違う、完全なギョーカイ目線。
ファンにとって大事なのは自分が好きか嫌いかだから、売れる売れないって主要な関心事じゃないので、ものすごく浮いて見える。
好きなアーティストの曲がヒットするのはうれしいし、「どうお?」という気持ちにはなるから、まったく興味が無いとはいわないけど。

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2012年1月 7日 (土)

フェルメールからのラブレター

渋谷Bunkamuraミュージアムで「フェルメールからのラブレター」展を鑑賞。
「ハンニバル」に「望みは?」という問いに「死ぬ前に、世界中に散らばっているフェルメールの絵を残らずみることでしょうか」と答える場面があるけれど、私が見たのは今のところ12点くらいかな。
そのうち10点は日本で。
去年の震災の後、展覧会がいくつか中止になったりしたけれど、こうして展覧会を楽しむことができて幸せ。

6月はいよいよ「真珠の耳飾りの少女」が来るので、今からわくわく。

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遠き山に日は落ちて

「クリスマスの約束」の録画で平原綾香の「新世界」を聴いて、なんでわざわざ大げさな詞をつけて歌うんだろうかと思った。
「遠き山に日は落ちて」でいいじゃん。
もともとこの人のブレスが嫌いなので、今までは歌い方とか声質が受け付けないものの選曲や詞についてはあまり気にしたことはなかったけど、「新世界」は曲に対するリスペクトが感じられなくてイヤ。
「Jupiter」の詞だってそんなに感心するようなものではなかったけど、あれはまだ定番の詞があるわけじゃないから良いとして、「新世界より」の第二楽章には人口に膾炙している素晴らしい詞があるわけです。

遠き山に日は落ちて
星は空を 散りばめぬ
今日のわざを なし終えて
心かろく やすらえば
風はすずし この夕べ
いざや 楽しき まどいせん


闇に燃えし かがり火は
炎 今は 静まりて
眠れやすく 憩えよと
誘うごとく 消えゆけば
やすきみ手に 守られて
いざや 楽しき 夢を見ん


自作自演とか他人の楽曲を歌うとかにはこだわらないほうだけど、詞だけ書いてアーティスト性を打ち出すことには昔から懐疑的。
概して言葉選びが独りよがりで素人くさく、歌詞カードや字幕を見ないと何を言ってるのかわからないことが多かったりするし。
「新世界」に詞をつけるなら、いっそ第四楽章を歌ってみろ、と思う。
それだったら、音楽的な挑戦ととらえられるから。
(斎藤晴彦的になるような気がしなくもないけど)

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2012年1月 6日 (金)

観客もライブの一部なので その2

去年の年末に行ったクリスマスライブのディナーショー、とても楽しかったことは既に書いたけど、好事魔多しというか「MCの1フレーズごとにいちいち笑う人がいて、その声が煩わしかった」と連れがぶつくさ言っていた。
こういうのって、MCに反応するなとも言いがたく、演奏を楽しむ邪魔にはなるわけではないからライブのマナーの範疇ではないんだけれど、さりとて気にならないかといえばそうでもなく・・・と、そこのあたりが難しい。
概して「ちゃんと音楽を聴きにきているお客さん」ばかりだし、子どもがぐずる声とか、演奏中に歩き回られること、手製団扇にくらべたら本当に本当に微々たることなんだけど。


そういえば川崎のロックユニットの開演前、会場中に響き渡るような声で話をしている人がいて、これもライブの鑑賞にはなんら支障にならなかったけど、個人情報保護の観点的にどうなんだろーと他人事ながら心配になってしまった。
お宅のプライバシー筒抜けですよ、奥さん、みたいな。

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2012年1月 4日 (水)

Wii2号

Wiiが頻繁に「ディスクを読めません」というエラーを出すようになって、もっと早い時期ならサポートセンターに送って修理してもらったほうが安上がりなのだけど、なにしろ経年劣化してもおかしくないくらい使い倒したので思いきって新規購入することに。
検索したWebサイトを参考に、セーブデータとMiiを移行した。
作業自体は簡単だけど、意外と大事だったのが作業の順番でした。


  1. 古いWiiを起動
  2. 似顔絵チャンネルで、古いWiiのMiiを新しいWii用リモコンにコピー
  3. Wiiオプションで、古いWiiのセーブデータを本体からSDにコピー
  4. ゲームのディスクが入っている場合は取り出しておく
  5. 古いWiiの電源を切る
  6. 新しいWiiの電源を入れる
  7. 似顔絵チャンネルで、リモコンにコピーしたMiiを本体にコピー
    ※これを先にやっておかないと、ソフトを起動した時に新規Miiを登録することになって面倒
  8. プレイしたいゲームのディスクを一回起動→リセット
    ※一度起動しないとコピーできない
  9. WiiオプションでSDから本体へセーブデータをコピー

Wii Fit PlusとFitness Partyのデータを無事移行し、継続して使えるようになりました。
Wiiスポーツリゾートが同梱されていたのでやってみたけど、ボウリングのスコアがリアルでやるのと同じだなんて、なんてこったい。

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2012年1月 2日 (月)

賀正

あけましておめでとうございます。

実家で猫の毛まみれになった服の洗濯も終わり、ほっと一息。
可愛いからいいけど。
テレビでエア・ケイとマイケル・チャンを楽しんでおります。

河原の穴的ブログではありますが、今年もよろしくお願いいたします。

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