ステロタイプなのですね
ちょっと遅ればせながら、1月9日の朝日新聞の社説(成人の日に―尾崎豊を知っているか)の存在を知って、脱力。
おっさんのノスタルジー、ここに極まれり。
以前、OL委員会か何かで「上司が佐野元春の『ガラスのジェネレーション』を熱唱するのが許せない」という意見を見て、「それくらい大目に見てやろうよ」と思った寛大な私ですが、親戚の還暦間近なおじさんが尾崎豊の「卒業」を歌った時はさすがにイラッとした記憶がある。
何を甘ったれているんだ、と。
尾崎豊の歌う反抗には一切興味が無かったけど、最近になって歌の上手さとメロディの良さを再認識したところなので、音楽の才能に恵まれていたのに、なまじカリスマ性があったがために残念なことになったな、と思う。
時には音楽でメッセージを伝えるのも悪くないけれど、やはりなんといっても音楽は音楽としてあってほしく、そのためには才能が必要。
尾崎豊なら純粋に音楽で勝負することもできたはず。
なお、「ガラスのジェネレーション」の「つまらない大人にはなりたくない」を、多くの人は「大人=つまらない」と解釈しているようだけど、私は「いろいろいる大人の中で「つまらない大人」という種類にはなりたくない」というふうに解釈していて、佐野元春の意図がどこにあるのかはわからないけど、それでいいと勝手に思っている。
自分の過去の時代を肯定するのも時には必要なことかもしれないけど、新しい世代に送るのなら、やはり魯迅の「故郷」の最後の一節かな。
せめて彼らだけは、わたしと違って、互いに隔絶することのないように…とはいっても、彼らが一つ心でいたいがために、わたしのように、無駄の積み重ねで魂をすり減らす生活をともにすることは願わない。また閏土のように、打ちひしがれて心がまひする生活をともにすることも願わない。また他の人のように、やけを起こしてのほうずに走る生活をともにすることも願わない。希望をいえば、彼らは新しい生活をもたなくてはならない。わたしたちの経験しなかった新しい生活を。
「わたしたちの経験しなかった新しい生活」を素直に肯定できるかどうかはともかくとして、心構えだけは、せめて。
今は「"大人なんてつまらない" なんて つまらない話さ」(by 杉山清貴)かな。
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