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2012年3月13日 (火)

パンドラの箱

去年の今頃は「パンドラの箱を開けてしまったのか」と、ハラハラしながらテレビやネットで注水作業を見守りながら思ったし、ゆくゆくは原発を停止する--少なくとも新しい原発は作らない--という方向が望ましいのは言うまでもない。
ただ、即時停止を訴える過激な原発反対派には賛同できず、社会への影響を考慮するどころか被災者への労わりさえ感じられない姿勢には反発しか感じない。
立場上、原発や放射能の危険性を強調することになっているんだろうけど、それが被災地の風評被害を招くもとにもなっているから、被災地に鞭打っている放射脳の人たちとセットという印象。

放射脳(言い得て妙)の人たちは一度自分の手で放射線計で測ってみればいいのに。
公式発表の値が信じられないとしても、自分で安全だと思う場所と危険だと思う場所を何箇所かポイントを決めて測定すれば、比較くらいはできると思うのだけど。


2011年4月7日号に掲載された養老孟司と阿川佐和子の対談は、原発事故から間もない時期に読んだ中で一番腑に落ちる内容だった。
養老孟司は、科学者の見解として原発の安全は技術的な問題でコスト次第としながら、「原発は必要ない。電力の要らない暮らしに戻せばよい」とも語っていた。
養老孟司の言う「電力要らない」度合いはいささか賛成できなかったけれど、技術的に解決できる問題であるのなら、おいおい原発をなくすにしても、電力需要や代替エネルギーなど諸問題を考えながらすすめるだけの時間的猶予はあるんだなと、少し安心できたのでした。
先日、養老氏のこの発言を批判しているブログを見たのだけど、原発不要の部分はスルーで「技術的には安全にできる」の部分を逐一批判していて、なんだかなーと思ってしまった。
ちょっとでも原発の危険性を否定するのは許さん、みたいで。

即時停止を訴える人たちは、電力需要の問題には触れないし、節電を訴えるでもなく、代替手段についても触れず、ただ「原発反対」を叫ぶだけ。
電力需要や代替手段に目を向けると原発賛成の声が強まると思ってでもいるみたいだけど、それじゃ建設的な議論はできないし、耳を傾ける気にはなれない。
まあ、議論しようとも思っていないのかもしれないが。
それにしても、強硬に反対を唱えるからには、火力発電の公害、水力発電の景観破壊、風力発電の低周波公害には抗議しません、太陽光発電が不安定でも文句を言いませんという覚悟くらいはあるんでしょうね?と問うてみたい。
そこも含めて、考えていかなくてはいけないんだけど。

声が大きいだけの人たちに惑わされないようにしていきたい。

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