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2019年6月

2019年6月23日 (日)

長文とか長編とか

ネット記事のコメント欄を見ていると、時々「長いっ」というレスを見る。
確かに、読んでみて「なんだこりゃ」となるような冗長で見当違いな記事はあるし、それに対して言うのはわかる。
でも、長さを批判するにはあたらないと思われる場合にも「長い」というレスを見ることがあって、それはどうなんだと思う。
わかりやすくコンパクトにまとめることは大切だけど、テーマによってはまとめきれない、まとめてしまうことが望ましくないことだってあるわけです。

そういう、長文を忌避する傾向が強い人は、長編小説など読めないんじゃないかと心配だったりする。
アレクサンドル・デュマとか指輪物語とか。
苦手なのを無理に読むことはないとはいえ、そういう傾向を野放しにして読解力の低い人が増えたりすると由々しき事態。
無理して読んだ後の達成感を味わえないのは他人事ながら残念なことだと思う。

指輪物語を読んだ時、延々と続くホビット庄の紹介と古森の展開に挫折しそうになって、「この先これは面白くなるの?」と愚痴ったところ、既読者に「裂け谷を過ぎたら面白くなる。がんばれ」と励まされた。
実際、裂け谷以降は怒涛の面白さだったけど、古森で読むのを止めていたらその楽しみは味わえなかった。
かといって、古森を飛ばせばいいのかというと、そこでの苦労が後の喜びの大きさにつながるので、お勧めできなかったりもする。

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2019年6月16日 (日)

スケ連と忖度メディア

フィギュア高橋大輔 世界再挑戦へ!まず体絞る「普段から気をつけないと」

この時期に「まず体絞る」にはちょっと驚いたものの、前にも書いたとおり、選手が現役として試合に挑戦するのは自由だと思う。
勝つために真剣に挑むのも、自分探しの一環でも、思い出づくりでも、それは自由。
問題は連盟とマスメディアの対応です。

連盟の「特別扱い」への不信感も強いけれど、それがまかり通っているのはメディアのフィギュアスケートの報道がいい加減なせいもあると思う。
昨季の男子シングルについては、知らない人たちが報道だけを見ていたら、全日本の二位に入る→世界選手権への出場決定→辞退→若手に権利を譲った、と勘違いしても仕方がない。
でも、国際大会に出場してミニマムスコアをクリアすることが必要だと報道されていたら、世間の見方も違っていたはず。
そして、それを報道したところで誰も困ることはない。
選手は然るべき努力すれば良かっただけ。

せっかく試合中継でもTESカウンターを表示するようになったのだから、国際大会の出場資格等のルールについても、もっと詳細報道してほしい。
ちゃんと報道されていたら、安易な若手批判も防げるし。

スケ連会長の橋本聖子議員が現役時代にベテランの域になっても五輪に挑戦し続けたことに対しては、一部で批判する人もいた。
でも、スピードスケートは言うまでもなくスピードを競う競技で、その選考大会で若手に勝ったのだから、これは文字通り「乗り越えられない若手がふがいない」という状況だし、テニスで復帰した伊達に若手が負けたことも然りで、こういうケースで若手の不甲斐なさを批判するのはわかる。
フィギュアスケートには実績を加味する演技構成点があるので、若手もベテランも同一条件で戦うスピードスケートやテニスとは同列には語れないけれど、技術点の基準は設けられているのだから、メディアはそのことをきちんと記事にするべき。

演技構成点については、いろいろ思うところがあるけれど、一概にこれを排せばいいかといえば、そうもいかない。
技術点のみの勝負にすると、フィギュアスケートを見る楽しみが大きく損なわれることになるので。
個人的には、実績を加味するのをやめて、体操のEスコアと同じ扱いにするのが一番すっきりすると思う。

出産後の安藤美姫が復帰した時は、連盟がいろいろ条件を付けた中に技術点も含まれていて、メディアもそのことを記事にしたりしていた。
安藤は出された条件をしっかりクリアした上で全日本に出場したわけです。
高橋大輔の復帰に際しては技術的な条件が提示されなかったのも疑問だし、メディアの報道ぶりも疑問。
こういう時、メディアは頼まれなくても「クリアすべき条件は~」と記事にするのに何故スルー?(浅田真央の時もスルーしていたけど)

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時代の香りを伝えてくれた人たち

相次いで好きな人たちの訃報が。

田辺聖子の古典には本当にお世話になりました。
「文車の日記」、「鬼の女房」、「新源氏物語」、「むかしあけぼの」、「隼別王子の叛乱」が特に好き。「舞え舞え蝸牛」と「私本・源氏物語」も。
わかりやすくて、くだけてはいるけど、その時代の雰囲気が感じられる解釈と描写。
昔の人も気持ちは今と変わらないなと感じつつ、決して「現代人」ではないという。
「千すじの黒髪」、「花衣ぬぐやまつわる」などの評伝は、その人物の欠点や悪評などにも触れつつ、常にフラットな視点で、欠点も含めて愛情が感じられる筆致が好きだった。
古典以外では「日毎の美女」が今読んでも笑える。社会的な背景はかなり変化したけれど。


そしてフランコ・ゼッフィレッリ監督。
「ロミオとジュリエット」は何度も映画館に足を運びました。
この映画から中世からルネサンスに興味を持ったことが、塩野七生を読むようになったきっかけにもなった。
もとは、ああいう衣装を身に着けた人たちが生きていた時代が知りたいという、ちょっとミーハーな動機だったのだけど。
古典作品を、本格的ではあるけれど必ずしも原作や歴史に忠実ではない形で映画化したという点で先駆的な監督だったと思う。
「ロミオとジュリエット」にしても「ハムレット」にしても、かなり斬新な描き方だったけれど、それでいて背景となる時代をしっかりと感じられたし、省略はしても改ざんはしない点も好きだった。節度っていうのだろうか。
「ヤング・トスカニーニ」の公開に合わせて開催された「フランコ・ゼッフィレッリの世界」という映画の衣装と絵コンテの展覧会で、ジュリエットの赤いドレスを生で見られたのは貴重な経験でその時の図録は永久保存版。
トゥーランドットが水色のイメージになったのはゼッフィレッリ演出のオペラをテレビで見てからです。
映画上映用に編集した「ナザレのイエス」を劇場で見たけれど、完全版のDVDが出ていた。今は中古のみだけど、再発売してくれないだろうか。

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