カテゴリー「映画よもやま話」の9件の記事

2022年3月31日 (木)

米アカデミー賞 2022

「ドライブ・マイ・カー」が国際長編映画賞受賞。
最有力視されていたけど、蓋を開けるまではわからないからドキドキしていた。
作品賞・監督賞・脚色賞の受賞は逃したけど、各賞の他のノミネート作品に混じって映像が流れたのが感慨深いです。
うん、他の作品と連続して流れても画面が遜色ないというか、美しい。
去年のカンヌでは、コロナの影響やなにやらで西島秀俊が参加できなかったのが残念だったけど、アカデミー賞は参加できて本当に良かった。
生パルプフィクションに満面の笑顔とか、カンバーバッチとの夢の2ショット写真も見られたし。

アカデミー賞の授賞式は追悼コーナーがわりと好きで、特に2013年のマーヴィン・ハムリッシュの追悼から「追憶」のイントロが流れてバーブラ・ストライサンドが登場して歌いだす流れは鳥肌が立った。

ウィル・スミスのビンタ事件、暴力はダメは前提として、品位云々でウィル・スミスを断罪するのなら、クリス・ロックの病気を揶揄するジョークは品位を下げていないのかって話です。
G.I.ジェーンネタ、面白くない上に二度繰り返してくどかったし。
元々アメリカのスタンドアップコメディアンの良さがわからないというのもあるけど、アカデミー賞の授賞式だからって、あのジョークを笑ってやり過ごさなければならないって、なんの罰ゲームだよと思う。
それと、パーで叩くのとグーで殴るのと凶器を使うのを十把一絡げにするのも大雑把。くどいようだけど暴力はダメは大前提だしパーなら殴っていいわけじゃないけど、情状酌量くらいはあってもいいでしょ、と思う。

途中「最後の決闘裁判」が誰も見ない映画としてネタにされていたのも笑えなかった。
作品は悪くないのに。
リドリー・スコットがその場にいなくて良かったですよ。

そういえば、編集賞の受賞者(Joe Walker)のスピーチが面白かった。ああいうユーモアのセンスは好き。

賞の選考や演出はとかく批判されるし私も批判するけど(一昨年の新聞記者とか新聞記者とか新聞記者とか)、日本アカデミー賞の小栗旬の久能整のコスプレは面白かったです。あれ、コスプレだけでなく立ち方とかも菅田将輝の真似していたんですよね。
人を傷つけないでふざけることはできるのに。

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2011年2月 4日 (金)

原作と映像化

小説の映像化は、たとえ「原作に忠実」というふれこみでも、多少の改変もしくはカットは免れ得ないものである。
「ロード・オブ・ザ・リング」はグロールフィンデルの登場場面がアルウェンに差し替えられて、古森及びトム・ボンバディルはばっさりカット。
「風と共に去りぬ」も、原作ではスカーレットの両親の若い頃の話や親戚、ウィルクス家とハミルトン家、タラ近辺の牧場主一家の話にページを割かれているけど、このあたりは全部カットされているし、後半のスカーレットの流産→ボニーの事故死→メラニーの病気はかなり駆け足で描かれている。
この二作品の場合、そうしないと物理的に上映不可能な時間になってしまっただろうけど。
テレビシリーズの「シャーロック・ホームズ」「名探偵ポワロ」「ミス・マープル」も、それぞれハマり役のキャストを得て名作の誉れ高い作品だけど、内容は少しずつ手を加えられている。
「オペラ座の怪人」はヒロインと怪人の名前と舞台がオペラ座という以外は、設定も物語もまちまち。

かように原作と映画は違っていて当然のもので、細かい心理描写や背景説明は文章が優ることがほとんど。
それならば映画やドラマに何を期待するのかといえば、それはやはり視覚と聴覚に訴えるsomething。
風景であったり、衣装やセットの豪華さ緻密さであったり、俳優の生身の魅力であったり。
たとえば「風と共に去りぬ」の原作を読んで、スカーレット・オハラの容姿やドレスをいろいろ想像するよりも、緑の小枝模様のドレスを着たヴィヴィアン・リーを見れば一目瞭然で、そこが映像の凄さ。
ストーリーははしょりにはしょって超圧縮版といえる市川箟の「細雪」も、蒔岡家の姉妹が身にまとう着物、四季折々の景色、丸帯を締める時に「きゅうきゅう」音がするという場面などが原作の空気を醸しだして、「細雪」たりえていた。

映像ではないけれど、「ハムレット」のオフィーリアの死の場面も、ひとたびミレイの絵を見たら、あのイメージが思い浮かぶようになる。

で、物語に関しては、原作→映像化のハードルはそんなに高くないつもりだけど、守ってもらいたい原作の核みたいなものは頑としてあって、そういう点で顎がハズレそうになったのが1998年版の映画「レ・ミゼラブル」だった。
ジャベールが自殺してジャン・バルジャンが「自由だ」で終わるんだけど、ラストの救いのなさも含めての「レ・ミゼラブル」であって、これじゃ違う作品だよ、と。
改変ではなくても、切り取る個所によっては作品の意味も印象も変わってしまうのだなと思ったんであった。

かなり前のエントリにも書いたけど、「エデンの東」も映画と原作はかなり違っている。
物心ついた時には既に不朽の名画と言われていたから、特に深く考えたこともなかったけど、公開当時に原作を先に読んだ人たちの映画に対する反応はどうだったんだろう?
まったく問題にされなかったのか、「ジェイムス・ディーンの魅力に免じて」だったのか。
昔の人のほうが原作との違いには寛大だった気もする。

なお、原作尊重を前提に考えるのは、物語はある種生き物みたいなものだから、翻案や脚色など、いろいろな過程を経て一人歩きするものだし、何十年何百年も経過して原形をとどめないものもあったりするけど、物語の核の部分を最初に世に出した作品と作者に対しては敬意が払われるべきだと思う、というのが理由です。

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2006年2月24日 (金)

写真集「ヴィスコンティの遺香」

「ヴィスコンティの遺香」という写真集があります。
映画「山猫」のロケ地、生前の状態に戻したルキノ・ヴィスコンティの自宅や別荘等を篠山紀信が撮影した写真集で、「ルートヴィヒ」と「山猫」の衣装、ピエロ・トージ(衣装デザイナー)のデッサン、関係者のインタビュー、全作品リストなど資料としても貴重な写真やデータも収録されている。
ヴィスコンティ家は遡るとミラノ公国を支配していた家なので、その邸宅や別荘となると、歴史的な興味だけでも楽しめるし、建物や調度の数々は、ただ豪華なだけでなく格調の高さ、趣味の良さをしみじみと感じます。
買ったときは生涯で一番ビンボーな時期だったけど、思い切って買ってよかった(涙)。

本の中にイスキア島の別荘の寝室の写真があるのだけど、暖炉の上にヴィスコンティのお母さんの肖像画と輝くばかりのヘルムート・バーガーのポートレートが飾られていた。
ヴィスコンティとヘルムート・バーガーというと、その関係についてはいろいろいわれている(というか事実、ですね)ことがあるわけだけど、その写真を一目見て、すっかり胸打たれてしまいました。
ヴィスコンティの母親への思い入れはそれは深くて、そのことは「ベニスに死す」、「家族の肖像」等からもうかがえるけれど、その最愛の母親の写真と並べて写真を置くほどにヘルムート・バーガーを好きだったのか、と思って。

そんなヴィスコンティが、ひとたび映画の撮影になると、ヘルムート・バーガーには周囲には残酷に思えるまでに厳しかったということだけど、それこそが「映画監督」の「俳優」に対する愛情なんだと思う。
適当なところで妥協してOKを出すのは決して役者のためにも作品のためにもならない。
で、プライベートではヴィスコンティに対して驕慢な態度を取っていたというバーガーが、撮影中は監督に従ったというのも、根っこのところでは偉大なる監督への敬意があったからでしょう。
ま、撮影中にも生意気な態度を取るようでは「顔が良いだけのバカ」ということになってしまうので、いくら美形でもヴィスコンティが愛するはずはないですが。

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2006年2月 9日 (木)

カラヴァッジォと白い魔女

本とか映画を選ぶ時、基本的には自分の好みから逸脱しないというか、あまり冒険はしないほうなんだけど、ほんのときたま、自分の本来の嗜好ではないものに手を出して、予想外に影響を受けてしまうことがある。
映画「カラヴァッジォ」と、カラヴァッジォの絵画がそれだった。

映画の「カラヴァッジォ」は最初レンタルビデオで見たのだけど、きっかけは勘違いというか魔がさしたようなもの。
コスチューム物が好きなので、16世紀の画家の話だから借りてみるかと見始めたら、たしかに16世紀なのだけど、衣装は現代と変わらないし、暴力的だし、枢機卿の使者は突然バレエを踊りだすし・・・と、内容も描写も到底好みとはいえないものだった。
だけど、薄汚れた格好をした娼婦レナが、豪華なドレスを身にまとった瞬間から顔つきが変わり、野心を抱いていく様子、レナをモデルに「マグダラのマリア」を描く場面が妙に心に残って、ビデオとDVDを買ってしまった。はい、この2つの場面を見るために。

その後、都内でカラヴァッジォ展があった際に、映画を見たのも何かの縁だと思って出かけたのだけど、見た当初は、とにかくリアルで激しくてグロテスクな絵が多いし、展示会場である庭園美術館のアールデコの装飾とのミスマッチもあって(バロックとアールデコは合わない!)、感銘を受けることもなく、わりと不満たらたらでその場を後にしたのだった。連れは人ごみで不機嫌になるし。

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2005年12月26日 (月)

N響アワーに実相寺監督が出演

映画「鏡地獄」の音楽の使い方がとても印象的で良かったのだけど、実相寺監督ってクラシックに造詣の深い人だったのですね・・・って、「乱歩地獄」のパンフレットに「オペラを演出」って書いてあるし。
司会の池辺晋一郎とも一緒に映画の仕事をしているということで、実相寺監督は音楽を映像に合わせるのではなく、音楽はそのまま切らずに使うという逸話が興味深かった。
なんだかヴィスコンティみたいだなー、と。映画監督でオペラを演出、というのも共通点ですが。

「鏡地獄」で使われたピアノ編曲の「タイスの瞑想曲」と「鏡の歌」が気に入って、まずは「乱歩地獄」のサントラを購入したのだけど、そのうちにオーケストラ版も聴きたくなって「タイス」全曲を買ってしまいました。
最初は全曲を買うつもりはなくて「鏡の歌」が入ったハイライト集を探したのだけれども、これがなくて。
全曲入りを購入後に「ベスト・オペラ100」が発売され、その中に「鏡の歌」が収録されているのを知った時はちょっとショックでした。
といっても、全曲にしか収録されていない、瞑想曲の旋律にのせて唄う最後の二重唱がとても美しくて良かったので、結果的には買って良かったんだけど。
「タイス」は、ハイライト集どころか全曲入りのCDも二種類しか見つからなかったので、CDを探す過程で、「鏡地獄」がかなりマニアックな選曲だったことを実感しました。
「瞑想曲」だけは有名だし、たくさんの演奏が録音されているけれど、それ以外の曲はあまり知られていないようです。

「乱歩地獄」は他の話が精神的にきつかったので一度しか観ていないけれど、「鏡地獄」を観たことが「タイス」を聴くきっかけになり、自分の世界を一つ広げることができたので、私にとって「良い映画」です。

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NHKを民営化しろという話も出ているようだけど、不祥事に対する怒りは怒りとして、民営化には不賛成。
なんだかんだとNHKには「N響アワー」をはじめ教養番組が充実しているし、民営化で受信料を払わなくてよくなったとしても、番組内容がスポンサーの意向に左右されたり、ドラマがCMでぶつ切りになったりしては、あまりにも代償が大きすぎる。
今は、お金さえ出せばCSとかケーブルテレビで自分の見たいと思うコンテンツを選択できるけど、自分が選択したものだけだと興味のあることを深めることはできても、幅が広がらなくなってしまうと思う。
他に見るものがないと教育テレビに合わせる習慣があって、そういう時に意外と掘り出し物の番組に出くわしたりすることもあるので、内容の公共性とコンテンツの質を保つためなら受信料は惜しくないと思っている。
だからって、そういう視聴者の気持ちに甘えたりつけこまれては困るけど。

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2005年11月24日 (木)

いわゆる「映画評」について

他人の視点を知るのは面白いので、映画評や感想を読むのはわりと好き。
自分の感想と違ったりすると「えーっ」と思うこともあるけれど、自分が見落としていたことに気づかされたりすることもあるし、読んだ映画評がきっかけで映画を見に行きたくなることも、たまにですがあります。
ただ、そういう中で、映画に点数をつけたりランクを付けたり、というのは、実はちょっと苦手。
雑誌の映画評のページであるとか映画サイトのユーザーレビューの星の数なんかは、最初からそういうシステムだと思って見るせいか特に気にならないのだけど、せっかく面白いと思って読んだ個人のblogの感想の最後に採点やランクが出てくると、正直がっかりしてしまう。
映画に限ったことではなく、何かを数値化する以上は条件を整理してデータとしての正確性を追求すべきだと思うので、個人の好き嫌いという要素が少なからず入った、適当というか漠然とした数値は、情報として見るとあまり価値がなく、それよりは気持ちの入った文章のほうが読み手にとっては有益な情報だと思う。(少なくとも私にとっては。)
それと、どういう動機であれ「映画を見る」、特に「劇場に観にいく」というのは、自分にとっては(ちょっと)特別な時間なので、そうやって観た作品に点数をつける・ランクをつけるということが感覚的になじまない、というのも一つにはある。個人的な感じ方ですが。

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2005年11月21日 (月)

外国人が見た日本?

映画館で「SAYURI」の予告編を見た。
テレビで流れているCMの映像にも軽い違和感を感じていたけど、スクリーンで見るロング・バージョンの予告編はそれどころの騒ぎじゃなく、思わず絶句。
髪型も着物の着付けも色使いも、そして女優の表情も日本じゃないし、お寺が関帝廟に見えた。

予告編で映画を判断すると失敗することがあるのは承知しているけど、ストーリーはともかく、映像の色使いは1分だろうが2時間だろうがあまり大差はないはず、と思うのです。

今までも、外国映画の中の数々の「妙な日本」を見てきたし、いちいち腹を立てたりはしなかった。
日本や日本人をパロディ化したものはむしろ余裕で笑えるし、考証を厳密にしろというつもりもない。
ないんだけれど、「SAYURI」(の予告編)の微妙な「これは日本じゃないぞ」加減には、受け入れがたいものを感じてしまった。
お金をかけて真面目に作っているらしいだけに、よけいに。

これが「外国人が見た日本」だとしたら、イヤな現実を見たというか、なんだかがっかり。
日本人に潜在的な美意識を自覚させようという壮大な作戦じゃないか、と思いたくなるくらい、強烈な違和感だった。

追記:
邦画で花柳界を描いたというと、思い浮かぶのは「香華」かなー。
何年か前にBSで放映されたのを見たけど、原作でかなり補完しながら観たので、映画自体がどのくらい詳細に描いていたかは思い出せない。それと京都と東京の違いもあるし。
とりあえず有吉佐和子の原作は面白かったです。

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具体的なところで一番強く違和感を感じたのは、「襟」。
襟の抜き方と襟元の合わせ方と。

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2005年7月12日 (火)

ラビリンス 魔王の迷宮

「ラビリンス 魔王の迷宮 コレクターズ・エディション」が8/24に発売とのこと。
待ちわびておりました。
デヴィッド・ボウイのとりたててのファンというわけではないけれど、「ラビリンス 魔王の迷宮」にだけは深い思い入れがある。
幻想的な仮面舞踏会のシーンは、このためだけにDVDを買っても良いと思うくらいに美しいし、「As the world falls down」は名曲。

同時期に「ジャスト・ア・ジゴロ」も出るらしいけど、こっちはDVDよりもサントラを強く希望。
マンハッタン・トランスファーが歌う「奥様お手をどうぞ」が艶っぽくて良かったんである。

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2005年7月 7日 (木)

ベアトリーチェ・チェンチ再び

7/2の「美の巨人たち」
メインはフェルメールの「真珠の耳飾の少女」だったのだけれど、内容的には去年の秋に放送したグイド・レーニの「ベアトリーチェ・チェンチ」の回の再編集+α。
「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」は去年の放送時に深い感銘を受けたものの、録画していなかったので、とても残念に思っていたんである。
今回はしっかり録画できて、とても幸せ。

放送時にはほとんど無名だった絵が「絵画史上もっとも美しい女性の肖像画は?」の第三位に入ったということで、今頃はローマのバルベリーニ宮殿に足を運ぶ日本人観光客が増えていることでしょう。
かくいう私も、去年の放送でグイド・レーニに興味を持ったクチなので、この5月の連休にマルタ島を旅行した時に、国立美術館にグイド・レーニの絵画があるということで、これは見逃せないと見に行ったりした。
ただ、このマルタの国立美術館というのが、それはそれはこじんまりしていて、なかなか見つからない。
展示品もグイド・レーニ以外は「~派」みたいなものが多く、「国立美術館」と期待していくと肩透かしをくらってしまう。
時間に余裕があれば、あのこじんまり具合も楽しめたのかもしれないけれど、タルシーン神殿に行く予定をやめてまで探し回ったあげくのことだったので、ちょっと失望を禁じえなかった。

同じマルタの聖ヨハネ大聖堂にはグイド・レーニと対比されていたカラヴァッジォの絵を集めた部屋があって、そちらは質・量ともになかなか見応えがありました。
大聖堂も一見の価値あり。

メインで紹介されていたフェルメールの「真珠の耳飾の少女」は、去年公開された映画が面白かった。
映画の中のデルフトの町の「暗さ」が美しかったし、フェルメール役のコリン・ファースは、こんな主人と一つ屋根の下に暮らしていたら、そりゃ17歳の少女はドキドキしてしまうよね、という感じ。
少女役のスカーレット・ヨハンソンも絵から抜け出たようだった。

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