「麒麟がくる」が終わった
過去の大河であまり描かれなかった(もしくは描かれていたけど残っていない)室町幕府と朝廷のエピソードが興味深かった。
足利義輝、正親町天皇、近衛前久、三条西実澄と、キャストも素晴らしかった。
そして忘れちゃいけない松永久秀も。
信長と光秀を見ていて、長谷川博己がケレアを演じた「カリギュラ」を思い出しました。
自らの手で帝位につけたカリギュラを自らの手で葬り去ったローマの近衛隊長。
舞台はケレアの設定が違うので、「ローマ人の物語」のケレアの印象なのですが。
物議を醸したオリジナルキャラクターは気にならなかった。
伊呂波大夫は今日の庶民の代弁者として見ていたし、東庵も駒も狂言回しとして機能していた。
唯一不満だったのは秀吉の設定及び描き方。
斎藤道三・明智光秀・織田信長については国盗り物語を踏襲している部分も多かったわけで、それなら秀吉も人誑しで、信長存命中は信長一筋に描いてほしかった。
秀吉の母は出てきたのに妻が出てこなかったのは、物語上の信長との関係に矛盾が生じるからだったのだろうか。
ちょっと面白かったのがこの記事↓
https://news.yahoo.co.jp/articles/3f9ef5d9a3b5a9e95175f06044e1384a7b592c11?page=4
この手の感想というか考察って、往々にして奇を衒って深読みしすぎたり逆に浅かったりということが多いのだけど、珍しく腑に落ちる記事でした。
「麒麟がくる」の信長像で私が想起したのは「日出処の天子」の厩戸皇子でした。
母親との関係性からだけど。
といっても自分とは異質の存在として信長を忌み嫌った「麒麟がくる」の土田御前と(それとは知らず)自分の血を濃く受け継いだ厩戸を恐れる間人媛では違うけど。
母ではなく、父に愛されなかった子(信長、家康、高政)と父に愛された光秀という対比は面白い。
「麒麟がくる」の中で光秀が心から敬慕した人として描かれている将軍義輝とは、麒麟の話をした父を持つ者同士でもあったのですね。
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