カテゴリー「映画(1970年以前)」の7件の記事

2020年7月29日 (水)

メラニー

「風と共に去りぬ」のメラニー役、オリビア・デ・ハビランド死去。
104歳の大往生。
妹のジョーン・フォンティーンも96歳と長寿だったけど、さらに長寿。

映画は時間的な制約もあって原作に比べて物足りなさもある。
原作のほうが先だったので映画は脳内補完しながら見たけれど、映画を先に見た人はどんな印象なんだろうかと思う。
ボニーの死からメラニーの死まではものすごく駆け足だし、メラニーの臨終の場面のスカーレットの独白もないし。。
それでも、映画の負傷したアシュレを救うためレットと芝居をする場面はメラニーの機智と肝の据わったところが見えて好き。

「とつぜん、あの閉ざされたドアの向うで、母のエレンが、もう一度死の床に横たわってこの世を去りつつあるような幻想にとらわれた。弱くて、やさしい、あたたかい心の持主の強い力がなければ、とても人生に立ち向ってはいけないとさとって、荒涼たる思いを抱きつつ、周囲の人たちといっしょにふたたびタラへ戻ったような気がした」

「風と共に去りぬ」以外ではアガサ・クリスティの「殺人は容易だ」のホノリア・ウェインフリートが印象的だった。
アメリカのTV版。
「殺人は容易だ」は英国TV版の改変(というか改悪)が酷かったし、アメリカ版をAXNミステリーで放送してくれないだろうか。

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2019年6月16日 (日)

時代の香りを伝えてくれた人たち

相次いで好きな人たちの訃報が。

田辺聖子の古典には本当にお世話になりました。
「文車の日記」、「鬼の女房」、「新源氏物語」、「むかしあけぼの」、「隼別王子の叛乱」が特に好き。「舞え舞え蝸牛」と「私本・源氏物語」も。
わかりやすくて、くだけてはいるけど、その時代の雰囲気が感じられる解釈と描写。
昔の人も気持ちは今と変わらないなと感じつつ、決して「現代人」ではないという。
「千すじの黒髪」、「花衣ぬぐやまつわる」などの評伝は、その人物の欠点や悪評などにも触れつつ、常にフラットな視点で、欠点も含めて愛情が感じられる筆致が好きだった。
古典以外では「日毎の美女」が今読んでも笑える。社会的な背景はかなり変化したけれど。


そしてフランコ・ゼッフィレッリ監督。
「ロミオとジュリエット」は何度も映画館に足を運びました。
この映画から中世からルネサンスに興味を持ったことが、塩野七生を読むようになったきっかけにもなった。
もとは、ああいう衣装を身に着けた人たちが生きていた時代が知りたいという、ちょっとミーハーな動機だったのだけど。
古典作品を、本格的ではあるけれど必ずしも原作や歴史に忠実ではない形で映画化したという点で先駆的な監督だったと思う。
「ロミオとジュリエット」にしても「ハムレット」にしても、かなり斬新な描き方だったけれど、それでいて背景となる時代をしっかりと感じられたし、省略はしても改ざんはしない点も好きだった。節度っていうのだろうか。
「ヤング・トスカニーニ」の公開に合わせて開催された「フランコ・ゼッフィレッリの世界」という映画の衣装と絵コンテの展覧会で、ジュリエットの赤いドレスを生で見られたのは貴重な経験でその時の図録は永久保存版。
トゥーランドットが水色のイメージになったのはゼッフィレッリ演出のオペラをテレビで見てからです。
映画上映用に編集した「ナザレのイエス」を劇場で見たけれど、完全版のDVDが出ていた。今は中古のみだけど、再発売してくれないだろうか。

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2011年12月 1日 (木)

ジンジャー・ブレッドの星

いつもより長めに「家政婦のミタ」を見ていて、なんだか「メアリー・ポピンズ」みたいと思ったら、そう思っている人は結構いるみたい。
初めて「空からきたメアリー・ポピンズ」を読んだ時は、笑わなくて怖いメアリー・ポピンズに子どもたちが懐いてしまうのがちょっと不思議だった。
そこがいいんですけどね。
映画のジュリー・アンドリュースは愛想良すぎたくらい。

ジンジャー・ブレッドの包み紙の星を夜空に貼り付ける話が好きで、少し前、ロンドンのお土産でもらった時に、そのことを思い出した。
ジンジャー・ブレッド自体は「美味しいっ」というものではなかったけれど。

一番好きなのはバートが描いた絵の中のお茶会。
ラーフィング・ガスのお茶会も好き。

映画よりも本のシリーズのほうがなじみがあるけど(だから、「メアリー」・ポピンズ)、面白がって憶えたスーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャスは今でもソラで言えます。
頭のメモリの用途を間違っている気がしなくもないけど。

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2008年12月27日 (土)

アラビアのロレンス/完全版

新宿のテアトル・タイムズスクエアにて鑑賞。
DVDは持っているのだけど、一度は劇場の大スクリーンで見てみたいと思い、行ってきました。
劇場で上映される機会もそうないことだし、上映時間の長さを考えると自分の気力・体力とも相談しないといけないし、これが最後の機会かもしれないと。

四時間弱の上映時間はお尻にはずいぶんと苛酷だったけど、思い切って出かけて良かった。
大画面で雄大な砂漠を観ることができたのは素晴らしい経験だったし、DVDでは気づかないことがたくさんありました。

理想と狂気のはざまで揺れ動くピーター・オトゥールのロレンスが素晴らしいのは言うまでもなく、彼を取り巻く一筋縄ではいかない人たちがみんな複雑で面白い。

パンフレットのキャスト紹介が古いなーと思ったら復刻版だったようです。


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2006年2月15日 (水)

映画「山猫」

BS2 衛星映画劇場放送予定
山猫 完全復元版 IL GATTOPARDO 1963年・イタリア/フランス 3月24日(金) 後7:30~10:38

DVDを買いたいと思いつつ、6300円という価格に躊躇していたので、放送されるのはとてもうれしい。
この映画は、高校生の時にテレビで見たのが最初。
その時は、やたらと長く感じて、「バート・ランカスターがアメリカ人なのにちゃんとイタリアの貴族に見えるのはすごい」とは思ったものの、「クラウディア・カルディナーレ(アンジェリカ役)が下品」とか「アラン・ドロン(タンクレディ役)が貴族に見えない」とか難癖をつけて、途中で見るのをやめてしまった。
でも、それから何年かしてから原作の文庫版を読んで、折りよくリバイバル上映をやっていたのでそれも見にいったら、かつての自分の鑑賞力が未熟だったことを思い知りました。
アンジェリカは「粗野だけど勢いのある新興勢力」を象徴しているわけで、それが監督の狙いなのだから「下品」というのは批判として的はずれだったし、タンクレディも老公爵との対比になる「若さ」を示す存在なので貴族らしさはそもそも主眼ではなく、でも、実はちゃんと貴族に見える。そう見えなかったのは自分の知識不足のせい。
タンクレディが「サリーナ公爵邸を訪れて、猟犬とたわむれながら公爵一家に挨拶する」というシークエンスがあるけど、颯爽とした身のこなしが闊達な貴族の若者そのものだったし、舞踏会のシーンでも微妙な心の動きを表現していて、「アラン・ドロンって演技の上手い人だったんだー」と認識を改めた。
だいたい、私が気づくような「貴族らしくなさ」があれば、監督のヴィスコンティが気づかないはずがなく、OKを出すはずがないのですね。正真正銘の貴族出身なのだし、完ぺき主義者で俳優の演技指導には厳しいことでも知られていたのだから。

それ以外も映画全編に原作が細部にわたって反映されていて、「映画と原作は別物」派なんだけど、「山猫」に関しては原作を読んでから見るほうがわかりやすいと思った。
ただし、映画が「原作を読まないとわからない」という描き方をしているわけではなく、映像の中の情報量が多くて、うっかりすると見過ごしてしまいそうだから、です。
これは原作に忠実でありながら、原作を超えた稀有な映画、だと思う。

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2006年2月13日 (月)

ティムシェル(汝、意思あらば、可能ならん)

土曜夜のテレビ朝日のSmaStation5でジェイムス・ディーン特集をやっていて、長年にわたる勘違いが一つ判明。
ずっと「エデンの東」で、ポール・ニューマンがジェイムス・ディーンとキャルの役を争ったと思っていたのだけど、ポール・ニューマンがテストを受けたのはアロン役だったのか、と。

「エデンの東」は、映画→テレビドラマ→原作の順で見ている。
原作は三代にわたる長大な物語で、善と悪の対立、原罪からの解放がテーマ(「BOOK」データベースからの受け売り)。
映画は原作の最後の一部分を描いたもの。
設定もストーリーもほとんど原作どおりでありながら、映画と原作でここまで異なる印象を与える作品も珍しい。どちらも紛れもない傑作なのだけども。
テレビシリーズはサリナスのレタス畑の風景などは映画と同じだったけど、ほぼ原作に忠実な内容で、やはり全体的に映画とは印象の異なる作品になっていた。こちらも面白かったけど。

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2005年7月12日 (火)

愛しのジュリエット

先週発売の週刊文春にオリビア・ハッセーのインタビューが。
「ロミオとジュリエット」のジュリエット役について語っていた。

どんな仕事でも必ずジュリエットを求められてしまう。なかなかそれ以外の私を見てもらえることがなかったです。だから、時々、「あのとき、『ロミオとジュリエット』に出ずにロンドンに残っていれば、もっと舞台も踏めただろうし、いろんな役にチャレンジできたのになあ」と思うことあります。

俳優にとっての「ハマり役」って、つくづく難しいものだと思う。
ナタリー・ポートマンのように、良い時期に複数の良い作品に巡り合えれば幸運だけど、たいていは少女期に決定的な作品に出演してしまうと、その後が難しい。
そういえば、ナタリー・ポートマンはディカプリオ版の「ロミオとジュリエット」のオーディションを受けて落ちたんだっけ。
ただ、オリビア・ハッセーはこうも語っている。

「でも、プラス面もたくさんありますから。やはりこれは映画史上に残る、永遠に生き続ける作品だということが一つ」
「そういう映画は滅多にないから、出演できたことはとても光栄です。」

今や決定版といってもいいオリビア・ハッセーのジュリエットだけど、すんなりと彼女に決まったわけではなく、もともとは従来のイメージに沿って金髪で青い目のジュリエット役をキャスティングしていたのが、撮影準備期間にうっかり髪を当時流行のショートカットにしてしまったために降板。
次に選んだのがオリビアだったと、ゼッフィレリの自伝に書いてあった。
運命的というかなんというか。

何度も見るくらいに好きになる映画って、最初はもちろんストーリーから入るのだけど、なん十回も見るとストーリーはどうでもよくなってきて、それよりも衣装の質感であるとか、音楽であるとか、役者のちょっとした表情とか、ディテールに目を凝らすことが多くなる。
なので、「ロミオとジュリエット」も、昔は、別れのシーンで泣き、ロミオの死で泣き、ジュリエットの死で泣き、ラストシーンで泣く、という具合だったけど、今はわりと淡々と見るようになっている。
だけど、こんなふうに擦れてしまっても、ジュリエットがロミオにキスをして「Thy lips are warm!」と取りすがって泣く場面(そしてニーノ・ロータの音楽がたたみかけるように流れる)だけは、泣いてしまうんだな。
エンディングクレジットが流れる後ろで、モンタギュー家とキャピュレット家の面々が和解していくところも、ひそかに涙のツボです。

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