カテゴリー「演劇」の8件の記事

2011年8月12日 (金)

太陽に灼かれて

観てから10日あまりが経ってしまいましたが、舞台「太陽に灼かれて」の感想を。

スターリン粛清下のソ連は陰惨で、これまでは意識的に避けていたため、知っていることはとても断片的。
子どもの頃読んだ少年少女文学全集のレーニンの伝記、中公文庫の世界の歴史、NHKのドキュメンタリー、初期のチャーリー・マフィンシリーズなどから得たソ連時代のロシアの知識とチェーホフの記憶に総動員をかけながらの鑑賞。

鑑賞後、「面白かったー」と発散・昇華するのではなく、心の中になにがしかの思いを抱えて帰途につくような、そんな舞台。

ミーチャ役の成宮君はとにかく端整。
オフホワイトのスーツを身に着けた立ち姿だけで、元貴族階級と感じさせる佇まい。
白いスーツは、以前に戦中・戦後のドラマでも着ていたけど、今のほうが似合っている。
何かを隠しているんだけど、隠していることが露になりすぎないところが良かった。
4年前よりも発声と滑舌、声のコントロールが格段に良くなっていて、正直驚いた。

水野美紀のマルーシャはとにかくきれい。
アクションができるから動きも美しい。
甘えた感じのしゃべり方なのに、ちゃんと台詞が通って聞こえて、舞台向きの声質なんだと思った。


コトフ大佐の鹿賀丈史は初盤は肩の力を抜いた感じで、台詞が聞き取りにくかったけど、終盤の迫力はさすが。
ただ、役としては叩き上げよりはエリートのほうが似合うと思う。

ナージャ役の美山加恋ちゃんは、まさに可憐。

竹内都子のモコヴァがコメディリリーフで良い味出してました。


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スターリン粛清下の話というと、「狭苦しいアパートで肩寄せ合って」という絵が思い浮かんでしまうけど、チェーホフを髣髴とさせるのんびりとしたブルジョワ家庭の生活描写から物語は始まる。
セットがきれいで、川遊びの場面は、ほんとに戸外にいるように思えるくらい。

舞台の冒頭でコトフ大佐は「俺たちは選ぶことができるんだ」と言う。
コトフは心からそう信じていたんだと思う。
この時点では。
そして、ミーチャにも選択肢があったと思っていたし、だから、自分の命令によりミーチャが失ったものの大きさを理解していなかった。
自分の身に粛清の波が及んだことを知るまでは。

中国の文化大革命もそうだけど、多くの人の生死さえも分ける決定が、独裁者の感情で決定され得るシステムが作られてしまうことが恐ろしい。

台詞から、ミーチャはマルーシャよりもかなり年上であることがわかるけど、その年齢差は物語の中で意外と大きな意味を持っているように感じた。
マルーシャの家族(娘と夫以外)は、オペラや文学、ダンスなど、革命で没落する前の価値観で生きている。
ミーチャが成人したのもそういう世界。
でも、マルーシャの場合、革命が起きたのはまだごく若いうちだったから、家族やミーチャほどには古い世界に対する郷愁はない。
だからコトフともうまくいっているし、娘のナージャは革命後の新しい価値観の中で育った子。
そういうことも含めて、ミーチャの喪失感につながっているのかなと思った。

なお、役者の実年齢では、水野美紀は成宮君よりも上だけど、ほとんど違和感がなかった。
舞台だからというのもあるけど、最近のテレビは実年齢を気にしすぎると思う。
だからって、20歳過ぎの女優に10歳の役はどうかと思うけど。

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旅行でフランスの宮殿や城を見に行くと、「フランス革命で破壊されたり略奪されたりしたのを復旧した」という説明に行き当たる。
物理的な破壊があったということは、人も損害を受けているわけで、革命を背景にした物語を見るにつけ、なぜ破壊せずには済まないんだろうと思う。
微調整・微修正でいいのに。

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2008年3月26日 (水)

寝かしておいた感想など

本を読んだ後、映画を舞台を観た後に、すぐに感想を誰かに言いたくなる時と「ちょっと寝かしておこうかな」という時があって、村上春樹の「海辺のカフカ」は「寝かしておいた」一冊。
内田樹の本を読んでいて、「海辺のカフカ」から引用されていた部分が印象的だったので、私も引用をば。

想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。一人歩きするテーゼ、 空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとって本当に怖いのはそういうものだ。
個別的な判断の過ちは、多くの場合、後になって修正できなくはない。過ちを進んで認める勇気さえあれば、大体の場合取り返しはつく。しかし想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。
宿主を変え、かたちをかえてどこまでも続く。そこには救いはない。うんざりさせられる。

この一節は好きな場面だったのに、寝かしっぱなしで忘れかけていた。
思い出させてくれて良かった。
「想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ」って、言い訳バッシングする人たちに当てはまるのではなかろうか。


もう一つ、最近「寝かして」いたのが昨年11月に観にいった舞台の「カリギュラ」。
「ケレアが一番好きだわ」とか「セゾニア役の若村麻由美は上手いなー」とか、シピオン(勝地凉)の「私は汚さずに批判する」という台詞が心に残ったわ、とか、断片的な感想ならばいろいろと思い浮かんだもののうまくまとまらなかった。
カリギュラが発する言葉の内容が、皇帝らしくないというか、「こういうことを皇帝が考えるかな?」と思ってしまったので。
といっても、舞台上の小栗旬は「若き皇帝」然としていて、その仕草や演技からは塩野七生の「ローマ人の物語」に「子どもの頃は軍団のマスコットとして兵士たちに愛されて、彼なりに知性もあった」と書かれていた「カリグラ」像を髣髴とさせたので、感じた違和感は演技に対してではなく台詞そのものに対してのもの。
で、これも、少し前に内田樹の「ためらいの倫理学」を読んで、そこにカミュのことが出てきて、少し違和感の正体がつかめた・・・ような気がした。
舞台上でカリギュラによって語られる台詞は、アルベール・カミュの主張そのものなんだなぁと。
まあ、主人公が作者の考えを語るのは当然なのだけど、それがかなりストレートだったのが違和感につながったのだと思う。たぶん。
暴君といわれた若き皇帝が20世紀の思想を語ったわけだから、そりゃ違和感もあるだろう。
それにしても、カミュは自分の意見を語らせる存在としてなぜあえてカリギュラを選んだのだろう、なんてことを考えてしまった。

なお、現在も「寝かしている」のが、映画「スウィーニー・トッド」だったりする(^_^;)。

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2007年11月12日 (月)

お気に召すまま2004

2004年の「お気に召すまま」初演の収録されたDVD-BOXを入手。
まず、印象に残っていた場面のいくつかをざざっと見てみた。
主役の2人はまだ年齢による変化が激しい時期で、3年経過していることを思うと若干の不安もあったけど、杞憂でした。
「再演と比べるとここが物足りないかな」という点はあるものの、本質的な面白さのツボは変わらない。
再演のほうが演技的には成長しているけど、今より華奢で可愛らしいロザリンドを見られるし、好きな場面を繰り返し再生できるのがうれしい。

ただ、これを見て、再演の素晴らしさもより一層強く認識したので、ぜひ映像化してほしい。

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2007年7月22日 (日)

お気に召すまま

ようやく観てきました、「お気に召すまま」。

シアター・コクーンに入る前に、せっかくなのでザ・ミュージアムでプラハ国立美術館展を見る。
で、静物画と「道化師と猫」の猫のぶさかわいさにひかれて図録を購入。
カメラを持ち歩くことが多くなったせいか、最近は静物画に目が行くようになりました。

そして本題。
心待ちにしていたのがこんなに遅くなったのはJリーグの日程との調整によるのだけど、アジアカップのことをすっかり忘れていた。。。
観劇中にオーストラリア戦の経過が気になるとイヤだなと思ったけど、見ている間はすっかり忘れていたくらい面白かったし、集中できた。

さて、舞台が始まって、まず目に付いたのが「馬の足」。
これが上手い。
馬の足の動きにリアリティがあるんですよ。
(一年の三分の一は週末に馬を見ているので、馬らしさにはちょっとうるさい。)

それからセットがとても美しくて、森に入る前の場面では、窓と照明の使い方が効果的。
窓一つで屋外になったり令嬢たちの部屋になったり、というのが面白かった。
アーデンの森の美しさはいうまでもなく。

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2006年9月19日 (火)

「魔界転生」二回目(おばさまレポート付)

新橋演舞場で「魔界転生」の二回目を見てきました。
急遽観にいくことにしたので、気軽に三階席で見ようかなと思っていたら、これが売り切れ。
前方で舞台の正面と非常に良い席が確保できそうだったので、迷った末に一等席に。
気軽というわけにはいかなくなったけど、おかげで舞台の全容も見やすかったし、役者のちょっとした表情の違い、衣装(特に魔界衆に興味があった)の細かいところまでがわかって面白かった。双眼鏡でも見えることは見えるけど、やはり裸眼で見るのは違う。

橋之助の柳生十兵衛、成宮君の天草四郎ともに前回見た時よりもパワーアップ。

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2006年9月 6日 (水)

魔界転生(付記)

「魔界転生」の原作を読みました・・・といっても、かなり厚いので拾い読みの飛ばし読み。
決してお勧めできる本の読み方ではないけれど、舞台と原作の違い、舞台化にあたって原作の材料をどういう取捨選択をしたか、といったことはなんとなくつかめた気がする。

適宜端折ってはいるけれど、舞台は基本的に原作に忠実。
ただ、森宗意軒の役割を天草四郎に組み込んでラスボスとし、転生衆の「現世への未練、無念」をより強めて表現したところが違う点。

原作ではわりと呆気なく倒されてしまう(そこが哀れでもあるけれど)天草四郎が映画に続いて今回の舞台でもラスボス扱いなのは半ば必然だと思う。

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2006年9月 4日 (月)

魔界転生(舞台)

新橋演舞場で「魔界転生」を鑑賞。
「魔界転生」は未読で、山田風太郎で読んだのは今のところ「警視庁草紙」だけなのだけど、エログロ要素の混ざり具合、ちょっとキッチュで、それでいて下品にならないところ、作品の根底に流れる人生観みたいなものが舞台から感じられた。
舞台が終わった後の寂寥感も、読後感と似ていたし。
天草四郎をフィーチャーした点は映画版に倣っているし、そこは原作とは違うということは一応知識としては知っているのだけど、「山田風太郎の本はこういうところが面白いんだよ」という部分を舞台に再現した、という感じを受けました。
文字で読んだままを想像したり、映像にするとエグくなりかねない部分が、お芝居の制約故にリアルでなかったのは私にとって好ましかった点。山田風太郎の文体や歴史観は好きなのだけど、エログロの部分はちょっと苦手なので。
山田風太郎テイストはなんとなく感じるし、原作との相違は気にならない、というスタンスで見ることができたのは良かった。

さて、成宮君の天草四郎ですが、予想していたよりも「ワル」でした(笑)。
もう少し「儚げな美少年系」で行くのかと思ったら、妖艶モード全開。
あんまり悪そうなんで、メイクがきつすぎるんじゃないかと思ったりしたけど、終演後の挨拶ではメイクはそのままで素の成宮君の顔に戻っていたので、演技だったのね、と納得。

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2006年3月20日 (月)

リチャード三世

NINAGAWA SHAKESPEARE DVD-BOXのもう一本、「リチャード三世」についてです。
リチャード三世については、エドワード四世の2人の王子殺害の黒幕という通説も一応は知っていたけれど、苦悩する誠実な人間として描いた森川久美の漫画「天の戴冠」と、伝えられる数々の悪行は冤罪だったとするジョゼフィン・テイの小説「時の娘」のイメージが強かったりする。
シェイクスピアのオリジナル作品(っていうのかね)は、戯曲を読んでいない作品でも、ラムの「シェイクスピア物語」でおおよそのところを知っているけれど、「リチャード三世」は歴史劇なので「シェイクスピア物語」には含まれておらず、したがってシェイクスピアが描いたリチャード三世像については長いこと知らないでいた。
かなり前にBBC製作のシェイクスピア劇場を見てはいるのだけど記憶が薄くて。
なので、しっかりと意識して見るのはこの蜷川版が初めてです。
で、まず感じたのは「このリチャード三世、悪いヤツだなー」ということでした(笑)。
斟酌なく思いっきり極悪人として解釈しているなあ、と。解釈というかシェイクスピアがそう書いているのだけど、

つねづね「史実とフィクションは別物」と思うことにしているし、この悪人のリチャード三世像のほうが長く伝えられてきたものであることはわかっているのだけど、善人説のほうが刷り込まれているもんで違和感が強かった。なにしろ真逆の人間像だから。
しかも舞台では、リチャードが亡霊たちに「絶望して死ね」と罵倒されているかたわらで、リッチモンド伯(やけにかっこいい)が励まされているし。
2王子殺しは実はリッチモンド(ヘンリー7世)が真犯人という説もあるから「二人の王子よ、呪う相手が違っているぞー」と思わずにはいられませんでした。
舞台上の市村リチャードは絵に描いたような狡猾で冷酷な悪人で、亡霊たちに「絶望して死ね」といわれるにふさわしい人物なのだけど。

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