カテゴリー「歴史、歴史小説」の19件の記事

2016年2月27日 (土)

この国のかたちを自炊した

先日、NHKスペシャル「司馬遼太郎思索紀行この国のかたち」を見て、そういえば「この国のかたち」を電子化していなかったなーと思って、急遽自炊決行。
「風塵抄」も一緒に。

「この国のかたち」は歴史小説や「街道をゆく」シリーズと違って現在進行形のものだからってことで自炊するのを後回しにしていたけど、もう没後20年だし、これを機会に「20年前の司馬遼太郎の思索」を読み返してみようと思う。


購入する電子書籍はアプリや電子書籍リーダーに依存するのが面白くなく、読むのはアプリでもいいけれどバックアップはPDFで欲しいのです。
お金を出すんだからダウンロードして自分のものにしたい。

電子書籍にならない本もまだまだあるし、紙で読みたい本もあるけれど、断裁→スキャンという物理的な手間をかけず、かつPDFで保管できる方法がそろそろ出てきてもいい頃、と思ってKindle版をPDFにする方法を調べてみた。
EPubにしてコードを追加したりと二手間くらい必要だけど、PDF化は可能であることがわかった。
これなら今後は有料電子書籍の購入も視野に入れてみようと思う。

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2014年9月23日 (火)

ローマ亡き後の地中海世界

塩野七生の「ローマ亡き後の地中海世界」がようやく文庫化。
1、2巻で描かれているのは、まさにローマ帝国亡き後、ルネサンスが始まる前までの中世の地中海沿岸を舞台にしたイスラムの海賊とキリスト教国の攻防。
モンタネッリのローマの歴史とイタリアの歴史でも描かれていない時代で、それを塩野七生の描く通史として読めるのがとてもうれしい。
千年前と現代と、同じような争いをしているんだな、と思ったりもしますが。

3、4巻は時代的にはルネサンスになるので、塩野七生の他の著作と重複しているけれど、視点を変えている部分も有るし、地中海をキーワードに一つにまとまっていてわかりやすい。
特にマルタ騎士団のマルタ攻防記は、「ロードス島の攻防」では描かれなかった部分でもあり、戦闘のあまりの熾烈さと、不利な状況ながら果敢に戦いを続けた騎士たちの姿に感動。
読みながら涙目になってしまいました。
騎士団という存在自体は、当時でもルネサンスの人文主義とは相容れなくなっていたし、ヴェネツィアの合理主義のほうが好きだけど、それはそれ。

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「フリードリッヒ二世」が文庫になるのが待ち遠しい。

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2012年10月 8日 (月)

パズルのピース

井上靖の「後白河院」を再読。
摂関家の家司、建春門院の女房、後白河院の腹心、九条兼実と4人の語り手を通して後白河院が語られる。
腹の分からない後白河院の姿が外郭から見えてくるのが面白い。

で、「平清盛」も語り手をリレーさせたらもっと良かったんじゃないかと思ったりした。
出生から忠盛の死までを家貞、忠盛の死から平治の乱までを盛国、平治の乱から平家滅亡までを頼朝、とか。
・・・と注文はありつつ、第37回「殿下乗合事件」~第38回「平家にあらずんば人にあらず」~第39回「兎丸無念」までがパズルのピースがハマるみたいで面白かった。
「殿下乗合事件」の重盛の描き方は、そこだけを見ると重盛が頼りない二代目みたいに見えてしまうけど、たたみかけるように禿(かむろ)を登場させたことで平家のダークサイドと重盛の正当性を暗示。
「平家に~」では禿(かむろ)にスポットを当て、兎丸の悲劇とともに禿(かむろ)の哀れさも描いたのがお見事。
禿(かむろ)って史実かどうかわからないし、登場させなくても全体的な話に支障は来たさない。
平家物語でも出てきたもののいつの間にか自然消滅していた(気がする)。
でも、文字はともかく、ドラマでは登場させる以上は退場させないと視聴者が置いてきぼりになるわけで、兎丸の最期と絡めたことで「こうきたか~」と思ったのです。

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2011年11月 9日 (水)

ローマ人の物語 読了

「ローマ人の物語」を読み終わったので、感想というほどでもないけど、ちょっと覚書。

興隆期から繁栄していた時代まではどこを読んでもわくわくしたけど、衰亡期に入るとちょっとほろにが。
興隆期で印象的だったのはティベリウスとクラウディウス。
ティベリウスの項を読んでから、政治家については「何を言ったか」よりも「何をしたか」で見るようになったかもしれない。
まあ、「何を言ったか」が重要なこともありますが。
クラウディウスはアグリッピナの尻に敷かれた挙句に殺された人という認識だったけど、ちゃんと仕事をした人だったんだなと。

そして衰亡期に入ってから印象的だったのがユリアヌスとスティリコ。
誰よりもローマ人らしい人でありながら、生粋のローマ人でなかったがために死を選ぶことになったスティリコが切ない。
歯切れよくバッサバッサと斬りまくる塩野七生も好きだけど、報われない有能な人物を描く時に見せる哀惜の念も好きです。
カリグラやネロにも意外と公平で優しかったし。

教会や大聖堂巡りはヨーロッパ旅行の楽しみの一つだけど、キリスト教を国教としたことがローマを衰退させたと思うと複雑。
そして最終巻、古代ローマの滅亡をダメ押ししたのが、蛮族ではなくて東ローマ帝国だったのは意外というか皮肉というか。
「ローマ亡き後の地中海世界」はいつ文庫になるのだろうか。

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私が読み始めたのは2002年の文庫版刊行からで、それだって足かけ9年だけど、ハードカバーの第一巻が出てからは19年にもなるのですね。
「ローマは一日にして成らず」から「勝者の混迷」までを猛スピードで読破した友人に「・・・次に文庫が出るの再来年だよ?」と言ったら、愕然としていたのも今は懐かしい思い出。

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2011年5月16日 (月)

イシュタルの娘~小野於通伝 第3巻

2巻途中で心ならずも結婚をした於通が3巻では離縁して京に帰還したのでホッ。
才能を認められて北政所の祐筆となり、いよいよ表舞台へ。
於通が結婚していた一年の間に京もいろいろ変化があって、やんちゃで一本気な好青年だった近衛信輔が失意の果てにグレて傾いた(かぶいた)姿で登場。
それがめちゃめちゃ色っぽくて素敵☆。
左府さん(信輔)失意の原因である秀吉の関白就任の経緯については、これまでは「秀吉がなんだかごり押しして関白になりました」という漠然とした認識しかなくて、戦国から安土・桃山時代って、そういえば武家側からしか見たことがなかった。
そういう意味でも、公家側を丁寧に描いているこの作品は新鮮で面白い。

近衛信輔(信尹)は一流の文化人だっただけでなく、文禄の役では朝鮮に渡ろうと九州まで行ったりとか相当行動的で剛毅な性格だったようで、実際にかぶいていたかどうかはともかく、傾奇者として描いても不思議じゃない人だったらしい。
それでいて豊臣武家政権と利害が対立する公家社会の中枢にいる、歴史の渦中の人物でもあってと、まさに事実は小説より奇なり。
大和和紀なら、ストーリーテリングに都合がよく、かつ魅力的な架空の「非実在青少年」をいくらでも創造できると思うけど、その人が実在の人物に着目してスポットをあてたとなったら、これはもうカッコよくないわけがない。
「歴史好きこそが歴史を面白く描ける」という、このうえない好例だと思う。
於通とともに、左府さんがこの先どんなふうに描かれるのかも楽しみです。

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2010年10月17日 (日)

そういえば、ポーツマスの旗

先日の国会で「何故ASEMに中国語通訳を同行させなかったか」という石破茂議員の問いに「わざと向こうが何を言っているかわからないようにするのが外交だ!」という野次がとんでいたそうだけど、わからないふりをするならともかく、本当にわからなかったら話にならないではないか。

吉村昭の「ポーツマスの旗」で、日露講和条約の交渉に際し、小村寿太郎はフランス語を解することを隠して交渉に臨み(当時のロシア宮廷の公用語はフランス語なのでロシアの交渉団はフランス語を使う)、通訳不在時のロシア側の会話を聞こうとしたというくだりを読んで、細心かつ緻密な準備に深く感じ入った身としては、真逆のことをやった上に、それを堂々と擁護する議員がいるということに暗澹たる思いです。
・・・と書いていたら、仙谷官房長官が日比谷焼打ち事件を引き合いに出したことを知って怒り心頭。
ポーツマス条約の時と今回は、起ったことも経緯もすべて違う。
仙谷官房長官が自分を小村寿太郎になぞらえているのだとしたら、思い上がりも甚だしいし小村寿太郎に失礼だ。

知識はあるんだろうけど、解釈とか結びつけ方がいちいち的外れなんだな、この人は。
http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C93819481E3E1E2E09C8DE3E1E3E2E0E2E3E28297EAE2E2E2;at=DGXZZO0195166008122009000000

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以前、民主党は現実の日本ではなく「脳内日本」に向けて政治をしている、と書いたことがあるけれど、仙谷官房長官の口にする中国も「現実の中国」ではなくて「脳内中国」であるように思える。
親中どころか媚中とさえ言われるわりに、中国の文化でも人でも直接知っているものはないんじゃないかと感じるので。
中国の文化が好きで親中になったのなら文革で行われた破壊活動は許しがたく感じるはずだし、中国人に知人・友人の一人でもいるのなら、やはり文革を肯定的に捉えることはないだろうと思う。
まあ、本当に中国が好きで親中派なのだとしても、「中国に対してだけ」不自然な敬語を使う感覚はかなり変だと思うけど。

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2010年9月 8日 (水)

イシュタルの娘

大和和紀の「イシュタルの娘~小野於通伝~」第一巻を読みました。
タイトルをちらっとみてSF物かと思ったら歴史物。
それも日本の戦国時代から江戸初期にかけて。
大和和紀の歴史物は、描き方は少女マンガの王道でいながら、着眼点が独特で面白い。
「レディ・ミツコ」、額田王を描いた「天の果て地の限り」も面白かったし、歴史物ではないけれど、「はいからさんが通る」、「紀元2600年のプレイボール」も、時代背景をさりげなく話にとりいれていた。
「イシュタルの娘」も当時の公家の事情が詳細に描写されています。
小野於通は「真田太平記」に重要な役回りで登場したけど、あれは後年の話だったので若い頃の話を読めてうれしい。
織田信長は高橋幸治の信長を彷彿とさせる信長で、最初は怖がった於通が次第に理解していくという描き方も好き。

漫画に限らず、面白い歴史物を描く人って、描き方ももちろん上手いんだけど、主役や狂言回しにする人物の選択眼・歴史の着眼点が優れているといつも思う。
それと、登場人物同士、歴史的事実との距離のとりかたが。

ところで、来年の大河ドラマのヒロインお江は、主演の上野樹里曰く「秀吉や信長にぐいぐい首を突っ込んで興味を持ってひとりで会いに行っちゃったりするような女の子。男っぽいところがあって、戦うところはしっかり戦う、はっきりとした性格」だそう。
http://mantan-web.jp/2010/09/07/20100907dog00m200025000c.html
これってどんな篤姫だ?、というか、オリジナル脚本のお江の設定をどうするかは、脚本家の裁量だとして、原作があって、原作では思慮深さと鬱屈を抱えていた天璋院を出しゃばりお転婆姫にしたことがそもそもの問題だったのだけど、この脚本家は歴史上の登場人物を悉くやんちゃ姫にしないと描けないのだろうか。
上野樹里の演技力なら「乱紋」のお江像も演じられると思うのに、残念。

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2010年8月 7日 (土)

乱紋

絶版になっていた永井路子の「乱紋」が文春文庫から新装版で復活。
浅井三姉妹の末娘「おごう」を描いた歴史小説です。
永井路子の小説の常として文体や台詞には不満があるけれど、歴史の解釈とキャラクター設定は好き。
この小説の印象が強かったために「不器量で自己主張がなくて何を考えているかわからないけど、何故か夫たちには大切にされる女性」というおごうのイメージが定着し、「美人で気が強くてヒステリー」という従来のイメージとされるおごうを見ると違和感を覚えるようになってしまったほど。
この「不美人・おっとり」説にどうして影響されたかといえば、一番最初に目にした説というのもあるけれど、淀殿の妹にして徳川二代将軍の御台所という立場にいる人でありながら「美人」と明記された文献がないらしいし、同性からみてパッとしない地味な女性が実は男を夢中にさせる魔性の女というのはアガサ・クリスティも何度か描いていたりと説得力を感じるからである。

浅井三姉妹を描く大河ドラマ「江~姫たちの戦国」のキャストには魅力を感じつつ、小松帯刀をナヨ五郎に、将軍家定をトンデモ設定にしてしまったショックはいまだ尾を引いていて、配役は良いのに脚本にまったく期待できないことがとても悲しい。
「篤姫」は脚本の酷さ+主演女優の演技にも不満があったから、上野樹里ならなんとかなるんじゃないかと期待したいところだけど、主役がどんなに適役で好演しても脚本が迷走するとトンデモ作品になるのだということは、「最後の将軍」という立派な原作がありながら、歴史とは関係のない架空の話に時間をさき、原作の面白い場面を省略した「徳川慶喜」で思い知らされている。
まして「江」は原作という歯止めもないし。
今からでも脚本家交代してくれないかしら。


ところで、再来年の大河ドラマが「平清盛」とのこと。
「祇園精舎・・・」ではなく「遊びをせむとや生まれけむ、戯れせむとや生まれけん」をテーマにしたいという脚本家のコメントに「また奇を衒うのか?」と一抹の不安を感じたのだけれど、「梁塵秘抄」を引き合いに出すということは資料をしっかり読み込んでいるということだし、「名探偵赤冨士鷹」を書いた人なら時代の雰囲気を反映させてくれるだろう、と思い直した。
ただ、今様をテーマに持ってくるんだったら、まんま後白河院を主人公にしても面白いと思うけど。

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2010年5月31日 (月)

ニコラ・ル・フロックのパリへ

週末にパリ+α旅行に出かけます。
しばらく前から頭と気持ちをフランスモードにするためにと「王立警察 ニコラ・ル・フロック」の原作を読み始めたら、これが滅法面白い。
「ブラン・マントー通りの謎」の最初の10ページほど読んだところでハマリそうな気がしたので、「鉛を呑まされた男」、「ロワイヤル通りの悪魔憑き」も入手。
一気に読んでしまった。
小説をこんなに夢中になって読んだのは久しぶり。


物語の背景となるルイ15世当時のフランス国内の情勢や国際情勢、フランス宮廷のかけひきがきちんと描かれているので、ミステリーとしてだけでなく時代小説としても面白い。
パリとパリ近郊の地名が詳細に出てくるのでそれを地図とひきくらべながら読んでいるのだけど、ドラマでは街並みを視覚的に味わえるけれど、ロケをしている場所は当然違うわけで、あまり細かい地名を出すのは差し支えもあるだろうし、詳細な地名で足取りを追う楽しみは小説ならでは。
地名が指輪物語方式の直訳にカタカナのルビで表記されているため、地名の由来がわかるのもうれしい。「オレンジ園=オランジュリー」は「ああ、なるほど」と思ってしまった。
ニコラとブルドー行きつけのビストロの料理は今で言えばB級グルメということになるんだろうけど、どれも美味しそうで、そういうところも池波正太郎みたい(笑)。
ただ、牛脂を使うレシピが多いので、頭の中でオリーブオイルかグレープシードオイルに変換しながら読みました。
ドラマのポンパドゥール夫人はブーシェの絵の印象とは違う疲れた感じの人だったけど、原作を読んで納得。
亡くなる少し前という設定だったのね。


原作とドラマはところどころ設定が違っているけど、「文章で表現されている内容をいかに視覚的に見せるか」に配慮した脚色なので、話が進むにつれてニコラのキャラクターが脱線しつつあるものの、ドラマはドラマとして楽しめる。
そして原作を読んでみて、ニコラ役のジェローム・ロバートがイメージにぴったりだということを改めて認識。
ハンサムで職務に真面目で、でも据膳は食っちゃう男--選り好みするけど--がはまってる。
ヴィヴィアン・リーのスカーレット・オハラ、高橋幸治の織田信長、中村梅之助の村田蔵六、杉浦直樹の「あ・うん」の門倉と同じくらいのハマリ役(←ワタシ的に最大級の賛辞)。
原作とはかなり設定が変わっているけど、ラ・サティンを演じているVimala Ponsもコケティッシュで可愛くて、イザベル・アジャーニに似ているかな。
フランスのテレビ局は、「モンテクリスト伯」にジェラール・ドパルデュー(とオルネッラ・ムーティのメルセデス)という強引な配役でドラマを作ってしまったこともあったけど、ニコラ・ル・フロックの配役は文句なし。

※ドパルデューのエドモン・ダンテスは、土方歳三役を西田敏行を演じるくらい強引。
ジェラール・ドパルデューの「レ・ミゼラブル」は文句なしに良かったですが。
「モンテ・クリスト伯」は、舞台版の内野聖陽(テレビで見た)が一番原作のイメージに近いかな。「風林火山」や「臨場」とは違って二枚目然としていました。


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警視ニコラシリーズを読んで、ニコラの出身地のゲランドに興味を持った折りも折り、Bunkamuraザ・ミュージアムのミュージアム・ショップでゲランドの塩を販売していたので買ってきた。

Bunkamuraザ・ミュージアムでは「ストラスブール美術館所蔵~語りかける風景展」を開催中。
シスレー、コロー、モネなど好きな画家のほか、ストラスブール出身の画家の絵、抽象画じゃないカンディンスキー、ストラスブールを描いた絵で構成されていて、心地よい絵が多かった。
ストラスブールは今度の旅行先の一つで、こういう絵画を収集している美術館がある街ならば、実際に歩くのもさぞ楽しかろうと、旅行への期待も勝手に高めたのでありました。
観光の時間は限られていて美術館でじっくり絵画を鑑賞する時間がとれるかどうかわからないので、日本にいながらにして鑑賞できて良かった。

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2009年7月 7日 (火)

光の回廊

清原なつの「光の回廊」を読みました。
光明皇后こと安宿媛(あすかべひめ)が主人公。
光明皇后というと、とにかく美化された退屈な存在と思っていたけれど、清原なつのが描く光明子は優しくて強くて残酷で、読み応えがありました。
ところどころギャグタッチだし、あえて時代考証を無視していたりもして、でも、それでいて飛鳥~天平の馥郁たる空気は感じられる。
旋回ダンスは時代的にちょっと違う気がしたけれど、ゾロアスター教とお水取りの様式の類似は言われてみればなるほど。
それと、藤原不比等と橘三千代のさりげない会話に、永井路子の「歴史をさわがせた女たち」を思い出したりもしました。


歴史を題材にした少女マンガは、為政者の冷酷な面も描かれていたりと、奥行きのある作品が多いのに、このところ「女性脚本家」が手がけると歴史が薄っぺらく人物が平板になってしまうのはなぜ。
創作力の乏しい薄っぺらい人が脚本家を目指すのか、ドラマ制作の現場がそういう脚本家に育ててしまうのか。

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