カテゴリー「週刊文春」の24件の記事

2018年1月21日 (日)

文春砲

以前はほぼ毎週買っていた週刊文春。
昔は芸能人のゴシップを扱うのは女性週刊誌とスポーツ新聞とテレビのワイドショー、文春は政治と社会的な事件に関わる記事が主で、女性週刊誌やおじさん系メディアを買うことには抵抗がある人も手に取れるのが新潮と文春だった。
私が新潮よりも文春を選んだのは、連載のコラムが好きだったから。スクープ記事はどうでもよかった。

芸能ゴシップが女性週刊誌やワイドショーの専売特許だった頃は、他人のプライバシーに興味を持つことに対する恥ずかしさがあったし、眉をひそめつつ、そして、あくまでも当事者間の問題であることを弁えた上で他人事として面白がる余裕みたいなものもあったと思う。
本気で弾劾する人がいたとしても声は小さかった。
文春が取り上げて文春砲とか言われだしたあたりから声高に糾弾する流れが出来てしまった気がする。
「たかが芸能ゴシップ」というタガが外れてしまったというのか、叩くことが正義と思いたい人たちを勢いづけてしまった。

ウタフクヤマで見た小室哲哉が、音楽談議にあまりノッていないように見えたので、引退を考えていたのは本当なんだろうと思った。
今回の記事はきっかけだったのだろうけど、そうだとしてもゴシップ記事がミュージシャンを引退に追いこんだことは釈然としない。
ミュージシャンは好感度で商売しているタレントとは違うし、音楽ファンなら犯罪ならともかくゴシップで音楽を聴く聴かないを左右されたりしない。そういうことで聴かなくなるのはもともと音楽を聴かない人たちだから。
俳優も、よほど良妻賢母とか好い人の役ばかり演じている場合は好感度タレントと同じ扱いになるけど、そうでなけば役と俳優は切り離して考えるものなので、本来は問題にならないはず。
小室哲哉の曲をまったく聴かない私でも会見の内容にはいろいろ思うところがあって、そりゃ人間だから自分に都合よく脚色した部分はあるだろうけど、それでも真実は含まれていると思うのですよ。
醜聞として扇情的に記事にするのではなく、「配偶者の介護にあたる人の苦悩」的なアプローチで記事にしようとは思わなかったんだろうか、文春は。
以前の安藤美姫の出産に関するアンケートの時もそうだけど、人のプライバシーとか痛みに対する感覚が相当麻痺していると思う。
メシのタネとしか思っていないというか。
いえ、メシのタネと思っていると自覚があるならまだいいけど、「ジャーナリストでござい」という姿勢なのが腹立たしい。
政治向きの記事には「報道しない自由」を行使しているのだから、読者のニーズを持ち出して正当化してほしくない。

記者の妬みが芸能人の不倫ネタを追うモチベーションなんじゃないかとさえ思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月 7日 (日)

非実在関係者

メディアリテラシーというものを意識し始めたのはサッカーに関心を持つようになってから。
試合についての記事が自分で見たものと微妙に(時には大きく)違っていたりしたことから「なんか妙だぞ」と。
そうしたら、捏造じゃないまでも不自然な省略とか強調とかが目に付くようになって、以来、新聞・雑誌の記事を鵜呑みにしないようになりました。

 

安藤美姫の出産告白で、これまでも存在が疑わしいと思っていた「某関係者」が非実在であることを確信することができて、すっきり。
子どもの父親が誰かよりも「某関係者」「某フィギュアスケートコーチ」が誰かのほうがよほど気になっていたけど、本当の関係者は秘密を守ったのだから、ぺらぺら「事情」をしゃべっているのは関係者ではないということ。
つまり、某とか「とある」関係者は存在しない。
存在しないのなら、記者の作り話ということで今後は無視するが吉
それにしても、ファンや好意的な人たちは軒並み「放っておいてやれよ」と思っているわけで、知りたがっているのは非ファンややじうまばかり。
マスゴミがおそらく自らの行動の根拠にしているであろう「知る権利」って一体誰のためのものなのかっていう話です。
文春のアンケートの件を見ても、マスメディアの人間が自分の覗き根性を満足させようとしているだけじゃないの?と思う今日この頃。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年2月 8日 (水)

自分で蒔いた種

中吊りの「橋下シンパの読者もこの記事だけは読んでください」という文言が引っかかって、週刊文春2月16日号購入を回避。
先週も買ってないし、いちいち宣言することでもないのですが。

現在、橋下大阪市長を支持している人というのは、元からの橋下支持者だけではなく、市長選の際の橋下バッシングの内容の酷さにウンザリして支持にまわった人も少なくないと思う。
マスゴミの異常さに不信感→橋下けっこうちゃんと仕事しているじゃん→支持、みたいな。
言わば、「橋下シンパ」はマスメディア自ら生み出したようなもの。
自分で蒔いた種。

文春は「自分はこういうことは関係ないと考えているんだけどぉ」というポーズをとりつつ、貶める記事を書いていたわけで、ネガティブキャンペーンの片棒を担いだという事実は残っている。
このところの週刊文春がよくやる、扇情的な見出し→記事は穏当(自分悪くないもん)→見出しが拡散して印象操作、という手法もいい加減バレてきていると思いますよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年12月 1日 (木)

週刊文春に西島秀俊

週刊文春のクローズアップに西島秀俊。
映画「Cut」についてのインタビュー中心の記事。
内容自体は今までにも何度か目にしているものだけど、総合週刊誌でとりあげられるのはうれしい。

西島秀俊のプロフィールで、映画の出演作の後に「多数のドラマにも出演」となっていたのに苦笑してしまった。
今週の文春は、「今週の言葉」の橋下徹への最後っ屁みたいな揚げ足とりはいただけなかったけど、プロフィールの省略が韓流絡みを避けてのことならちょっと快哉。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月13日 (木)

週刊文春10月20日号

“1000人大アンケート女子大生、OLがカレシにしたい歴史上の人物」”という記事、歴史ネタだからと軽い気持ちで目を通したら予想外に下品で参った。
カレシにしたい云々はいいけど、その先が妙に具体的で。
別に歴史上の人物を尊敬しなくちゃいけないと思っているわけじゃないし、歴史小説だって作家の妄想全開といえなくもなく、なかにはずいぶんな作品もあるけれど、小説として創造するのと自分の欲求をあけすけにアンケートに書くのとは違うと思うんである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月 9日 (月)

週刊誌のこと

愛読かといわれると違うし、記事の内容によっては週刊新潮を買う週もあったけど、長いこと週刊文春を読んできて、「ほぼ」定期購読といっていい時期もあったりした。
それが、震災以後は週刊新潮を手に取ることが多くなっている。

週刊文春が事実のみを感情を交えずに報じるというスタンスの雑誌ではないことは承知の上で、以前は意見がはっきりしていたから面白かったのだけど、最近は「だからなんなんだ?」という記事が多くてモヤモヤする。
悪意のある見出しをつけておきながら、内容はどっちつかずとか、おためごかし。
内容はあたりさわりなくても、悪意のある見出しによって悪評のみは拡散するからタチがわるい。
少し前に石破政調会長の娘の就職先について記事にしていて、記事の内容自体は穏当なものだったけど、見出しだけが一人歩きして、結果として記事をちゃんと読まない人たちへの印象操作になってしまった。
震災前なら東電に就職したら勝ち組といえたけど、今の時期に東電社員でいるのは針のむしろ。
それに、係累が就職したことによって企業に手心を加えたりした事実でもあるならともかく、そういう事実はないのに、誰がどこに就職したとか余計なお世話。
菅首相が東電社員を怒鳴りつけたことは首相にあるまじき言動で、それを批判するのに娘の就職先は関係ないはずなんだけど、結びつけて考えたがる輩に格好の餌を与えてしまった。

民主党政権誕生にあたっては、マスゴミの印象操作の影響も大きかったんだから、いい加減懲りてほしい。


---
話は変わって週刊ポストの記事。
真面目に受け取るような記事じゃないといえばそれまでだけど。

女子フィギュア 裸体を連想させるセクシー過ぎる衣装は減点
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110510-00000002-pseven-spo

問題にするなら、文中で触れている選手の衣装よりも、バストトップが肌襦袢とか、薔薇ジャーとか、亀甲縛りのほうではないだろうか。
着ている選手があれなんでセクシーには見えないけど、下品な衣装であることは断言できる。
セクシーは容認できるけど、下品は耐え難いし、衣装を減点対象にするなら、セクシーよりも下品のほうをターゲットにすべきである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年9月18日 (土)

最近の週刊文春より

9月23日号の阿川佐和子の対談のゲストが森山良子と矢野顕子。
印象に残ったのが、矢野顕子がピアノの運指の練習のためにツェルニーをやっている、という話。
矢野顕子で好きな曲は「David」くらいなんだけど、プロ中のプロが基礎練習をやり直すという姿勢は好き。
森山良子が「酒をとるか、歌をとるか」で歌をとったら息子に意外に思われた、という話もおかしかった。


その前週、9月16日号の「佐野眞一×福田和也「剛腕神話」のバケの皮を剥ぐ!」という座談会で小沢一郎について「実は総理として矢面に立ちたくない」「社会人の経験がない」と評していたのが腑に落ちる内容だった。
もっと早く言えよ、とも思ったけど。

好きな歴史上の人物の一人がチェーザレ・ボルジアなくらいなので、上に立つ人は仕事が出来ることが最優先で必ずしも「好い人」である必要はない、と思う。
小沢一郎には何か深謀遠慮があるのだろうと長きに渡って好意的に解釈していたけれど、去年の選挙前の代表交代あたりから、責任ある立場になることから逃げているように思えてきたところだった。
去年の代表交代は小沢疑惑を受けてのことだったけど、疑惑をめぐる状況は今回もさほどに変わっていないわけで、今回出馬するくらいなら、世論が民主党に傾いていた去年、そのまま首相になればよかった。
そもそも首相になる気があるのなら、自民党にいればもっと早くにチャンスは訪れたはずだけど、結党したり解党したりの繰り返し。
外交とか内政とか、具体的な政治の責任を負いたくないように見える。
ものすごく期待されて首相になりながら、精彩を欠いた安倍元首相の例もあるけど、矢面に立つというのはそれだけでも大変なことだけど、思えば党の要職は経験しても行政の長たる大臣の経験は一度もないのが小沢一郎。
災害が起った時も、大事件が起った時も、外交上の問題がある時も、無責任な外野としてしか発言していないから、行政の長としての能力もいまだ未知数のまま。
結局、小沢一郎の関心事は政局であって政治ではないんじゃないか、という意見をネットで見たけど、同じように感じる人がいるんだなーと思ったんであった。


で、民主党代表は菅首相が再任。
今の時期になぜ代表選をやらなくてはいけなかったのか今もってわからないし、菅首相を支持しているわけではないけれど、首相がころころ代わる事態にならないのはよかった。
小沢一郎が首相になって、責任ある立場でどう振舞うのかも、ちょっとだけ見たかった気もするけれど。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年1月15日 (金)

週刊文春 2010年1月21日号

青木るえかが「テレビ健康診断」にフィギュアスケートのメイクと衣装について書いていたけど、浅田選手の赤黒衣装が「まだマシ」で、それ以外が見るからに変に見えるのだそうな。
いっそ「フィギュアスケートの衣装はみんな変」というのなら「舞台衣装的なものが嫌いなんだろう」と理解もできるけど、「鐘」の赤黒がマシで他の衣装が変に見える美的感覚というのは度し難い。
さらに浅田真央と安藤美姫のメイクを「落書きメイク」と一括りにしているけれど、この二人のメイクは手法もテクニックもずいぶん違う。
それが同じに見えてしまうような人がメイクについて語るなと思う。
さらに、その後のくだりにくると、これがなんともはや。

このフィギュアやバレエの化粧は、衣装のほうの「日本人の国民性」とは正反対の方向にある。つまり「西欧至上主義からくるムリな模倣」だ。衣装はヤンキー文化ぷんぷんで顔はクラシック路線。このアンバランスが観ていて耐えられない。ヤンキーは嫌いだが、
どうせなら身についているほうを活かすべく、メイクもビジュアル系みたいにしたほうがさっぱりするのでは。・・・といってもアンバランスでも世界で優勝できたりしているわけなので、世界もそれを認めているということか。私は認めたくない。


日本人選手の衣装は概して舞台衣装的なものが多く、これはどちらかといえば欧州の選手たちに近い。
ひきかえ、ヤンキー=北米のフィギュアの選手たちの衣装はシンプルなものが多いので、衣装が派手なことを揶揄しながら「衣装はヤンキー文化ぷんぷん」というのは的外れもいいところ。

それと、どうも「ヤンキー」を「西欧」の意味に使っているようなんだけど、西欧とは言うまでもなく西ヨーロッパ。
百歩譲って「欧米」の意味で使ったのだと大甘に拡大解釈するにしても、ヤンキーにヨーロッパが含まれないのは言うまでもないこと。
英国人以外を指してジョン・ブルということがないように、アメリカ以外をヤンキーと呼ぶことはない。
衣装とかメイクを語る以前に、ヤンキーの意味くらい知っておいてほしい。

単に知識がなくて見方が偏っている人の視点は「ユニークな視点」とは断じて違う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月 7日 (金)

週刊文春090820

☆「3000人読者が選んだニッポンの「偉い人」116人」
アンケート結果を見ながらの半藤一利、福田和也、梯久美子の鼎談。
歴史好きにとっては面白い記事だった・・・のに、最後の麻生首相に言及した部分でがっかり。
半藤一利の「口をひん曲げて」という表現が下品だし、福田和也が近藤勇の斬首を持ち出したのも悪意が感じられるし。
最近の政局に関する記事は、どうせ偏向しているだろうからと読み飛ばしているけど、せっかく面白そうだと思って読んだ企画モノの記事で、こういうのにぶつかるとウンザリする。
うっかり犬のウンコを踏んだような気分。
「歴史上の偉人」がテーマのページで、現職の首相について言及する必要性も意味も感じられない。
「歴史上の偉人=亡くなった人」なわけで、資料の発見とか人の解釈によって変わるにしても、一応、功罪の評価は定まった存在といえる。
でも、生きている人、ましてや現職となれば功罪の評価はまだまだ先のこと。
それを一緒に論じてしまうのは乱暴だし、現政権の批判や揶揄をするならば、別の場を選ぶべきだと思う。

#現首相を「政権にしがみついて・・・」と批判する人たちは、「未曾有の経済危機」に直面している時期に「支持率が低いから」と辞任することを、「引き際がいい」とか「潔い」とか本気で思っているんですかね?
前から不思議なんだけど。


☆本当の「視聴率女王」決定戦!
「過去の3作品を徹底チェック」と銘打っているけど、他が民放の連ドラの中で一人だけ3作品全部NHKの人がいまーす。
朝ドラと大河ドラマを連ドラと同じ土俵にあげるのはなんか違う気がする。
時間帯も放送時間も視聴者層も違うのに。
視聴率を比較すること自体がナンセンスではあるけれど、比較する以上は条件は揃えないと。

「3作品ともがNHK」の宮崎あおいが、朝ドラと大河ドラマが20パーセントを超えていたにもかかわらず16.7というのは、それだけ「ちょっとまって神様」の視聴率が低かったということだけど、その「ちょっとまって神様」の宮崎あおいが他の2作品よりもはるかに可愛く魅力的で、ドラマとしても面白かったのだから、視聴率でドラマや女優の価値をはかるのは馬鹿げているということを証明しているようなもの。
#「高校の制服を着た泉ピン子」はインパクトがありすぎたけれど。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月23日 (木)

ハヤシマリコ

週刊文春7月30日号で林真理子がコラムで珍しく村上春樹について書いていたけど、またしてもというか、後味があまりよくない。
かいつまめば、「1Q84」を読んだこと、過去に村上春樹と邂逅した思い出話なのだけど、思い出話のほうはいつもの自慢話だからいいとして、「1Q84」が爆発的に売れていることについて「さすがノーベル賞候補のブランド力」と書くあたり、そこはかとなく失礼。
ブランド力云々は当っていなくもないけれど、いくらステージが違うといっても同業者がそれを書くかね。
いっそストレートにやっかむほうが清清しい。

追記:
メガヒットが、「売れているらしい」という情報につられて買う人によって増幅する、ということはよくあることだし、一般読者が「『1Q84』って買っても読んでない人も多いよねー」と世間話をするのは普通にありそうなこと。
ただ、同じことを「同業者」が雑誌のコラムで書くとなるとちょっと印象は違ってくる。
同業者が「あの本は売れているけど読んでいる人は少ないよ」というのは、冷静な分析というよりは「妬み」と思われかねないこと(というか、妬みとしか思えないけど)で、だから他の作家はそういうことを書かないのだと思うのだけど、林真理子は書くんですね。
で、これは「歯に衣着せない」とか「率直」ということではなく、節度とか羞恥心の鈍さ、だと思うんである。
羞恥心がないとは思わないけど(だからオブラートにくるむ)、それ以上に言いたい・書きたい気持ちが優先してしまうのかなと。


昔、中島らもが「平積みの村上春樹と自分の本を並べ替えようかと思った」と書いていたことがあったけど、こういうほうがよほど笑える。


林真理子に才能がないとは思わないし、時には観察眼や分析の鋭さを感じるし、題材を面白そうだと思うこともある。
他人や事象を鋭く観察するというのは、ある程度の意地の悪さをともなうことだから、作家・小説家が人格者であるべきとも思っていない。
ただ、性格の悪さにも「一線」はあって、文春のコラム以外で林真理子の文章を読む気にならないのは、作家という職業に許容される性格の悪さとは違う類の卑しさを感じるため。

マイケル・ジャクソンを話題にした時も、同じように「ちょっとイヤな感じ」がありました。
とりたててマイケル・ジャクソンのファンではなくても、全盛期の歌とダンスを見て「すげー」と目を見張った人は多いし、どれほどスキャンダルが話題にのぼろうが、マイケル・ジャクソンの核の部分はスキャンダルではなくパフォーマンス、というのは暗黙の了解みたいなものだと思う。
たとえマイケル・ジャクソンそのものには関心がなくとも、他のことに夢中になったり感動した経験があれば、マイケル・ジャクソンの死を悲しむ人たちの気持ちはわかるし、安易に話題にしたりはしない。
でも、林真理子は「よくわからないけど大スターだし、とりあえず一度見ておきたかった」という感じで、そういうところがデリカシーがないんだよなーと思う。
かといって、ミーハーの無邪気さともちょっと違う。


時間もエネルギーも限られているから、自分がほんとに好きなことか必要に迫られたことでなければ首をつっこんだりはしないし、できない。たいていの場合は。
でも、「さほどに好きじゃなくてもエネルギーだけは注げる人」というのもいて、林真理子もそのタイプなんだろうと思う。
で、そういう人は、往々にして心から好きだったり熱中するものを持たない人で、自分の目を通してナニカを語るのではなく、ナニカをネタに自分を語る、究極の「自分大好き」。
「自分大好き」自体は否定しないけど、その「ナニカ」を自分語りの道具に使われることは、真剣に好きな人からすると、神聖な場所を土足で踏み荒らされるようで不愉快なものなんである。
多分、好きじゃないと無意識にリスペクトを欠いてしまうんだと思う。

---
さらに追記:
林真理子の批判(というか、まあ悪口ですね)を何度か書いているけれど、なぜ気に触るのかを自分なりに分析してみると、「嫉みと妬み」を正当化したからなのだと思う。
嫉妬心は誰しもあるものだし、それを無理矢理押さえつけたり、「ないこと」にするのは不自然で、存在を認めて付き合っていかなくてはならない感情。
でも、だからといって正当化していいかといえば、それは違うと思うのです。

ウエストがゴムになっているスカートやパンツはとても楽だけど、堂々と「着ています」とは言いにくい。
楽な衣服を身につけることも身体のためには時として必要だけれど、そういう「楽する自分」を表に出さないようにする、恥らう感覚をどこかに持ち続けたいもの。
嫉妬の感情も同じく、たまには開放しないとやってられないこともあるけれど、野放しにしたり、正当化していいものではない。
嫉妬心のありようを描く作家なら数多くいるけれど、正当化した作家となると、林真理子以外には寡聞にして知りません。
この「精神的なゴムのスカート」を正当化し、一般化した罪は重い、と思うんである。
---


ごく自然に、だが自然に愛せるといふことは、
そんなにたびたびあることでなく、
そしてこのことを知ることが、さう誰にでも許されてはゐないのだ。
(中原中也)


| | コメント (0) | トラックバック (0)